ライフハッカー日本版に幸せに感じる良記事が掲載されていましたので
この記事をご紹介していきながら、今日は幸せについて考えてみたいと思います。
「年齢によって幸せの感じ方がどのように変化するかという研究結果」の記事の中の
「幸せというのは動く標的のようなものだ」という言葉がとても印象的でした。
この言葉にインスパイアされて、「年齢と幸せ」「家族と幸せ」について
ちょっと考えてみようと思ったのです。
幸せの定義は年とともに変わっていくのですが、自分視点だけで考えていくと
家族全員が幸せになれないという考えが頭を過りました。
ペンシルバニア大学のビジネススクールであるウォートン・スクールの
Cassie MogilnerさんとAmit Bhattacharjeeさんの研究結果が
記事では紹介されています。
未来を見ている若い人たちは、特別な経験からより大きな幸せを感じています。一方、年齢を重ねた人たちは、何でもない普通の経験が幸せにつながっています。
自分の若い頃を思い出すと、いつも刺激を求めていました。
大好きなアーティストのライブや金曜日の飲み会など
毎週毎週ワクワクを求めて、特別な体験のために時間を費やしていました。
今より遥かにアクティブで海外にも年に何度も遊びにいっていました。
しかし、記事が指摘している様に、私も年を重ねることで
非日常的な体験よりも、ご飯を家族と食べるなどの普通の何気ないことに
幸せを感じるようになってきたのです。
人がそれまでは特別で非日常的な経験に幸せを感じていたのが、家族や友だちとごはんを食べるというような日常的な出来事に幸せを感じるように変化する理由は何なのでしょうか? その疑問については、さらなる研究によって、人生に残された時間がどれくらいあるかという感覚が、日常生活に幸せを感じるように変化することと関連していることが分かりました。BhattacharjeeさんはKnowledge@Whartonで「人生に残された時間はまだまだあると感じている時は、日常的なものは当然のものだと思っている」と言っています。
若い人のように時間があると、日常的なものは当然なものだと考えますが
残された時間が減ってくると、普通のことでも大事なことに思えてきます。
もし、癌と宣告されて、余命を三ヶ月となれば
残された時間は、すべて貴重でかけがいのない時間になるはずです。
私は二度ほど交通事故に遭っているのですが
そのときは歩くことすら難儀で
移動できないことに、とてもストレスを感じていました。
普通に歩けるように回復したときには
いつも見慣れた町の景色がとても新鮮に見え、感動したことを覚えています。
もし、明日から歩けなくなったら、昨日までの日常が素晴らしいものになるのです。
何が起こるかは予測できないのですから、今を全力で生きることを
いつも心がけておきたいものです。
一方で、家族の視点で考えてみると、非日常的な体験もしておきたいと思いました。
正確には、家族の記憶に残ることを日常、非日常の両方で行いたいと思い始めました。
私の娘たちは非日常の体験に幸せを感じるならば
彼女たちの記憶の中で幸せを感じさせるためには
おじさん感覚で考えていては駄目だと言うことですね。
自分の幸せの基準にあわせてばかりいると、危ないかもしれません。
こう思ったら、家族と非日常の体験をしたくなり、旅行に行きたくなりました。
非日常の中の日常に私は幸せを感じられるはずなので
とにかくどこかに出かけたくなりました。
(子供たちのリクエストでこれから舞浜の夢の国に行きます。)
幸せだと感じることが年齢と共に変化する、ということを明確にしておくことには実用的なメリットがあるのです。 この研究はマーケティングにも利用することができます(年配層には普通のものを、若年層には特別なものを強調するというように)。でもひょっとして、30代半ばの人は、若い人が退屈するような日常的な生活に、自分が満足していることにショックを受けるかもしれません。
この幸せの感覚の差はマーケティングにも
使えるということも覚えておきたいですね。
今日も読んでいただき、ありがとうございます!
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