消費される階級
酒井順子
集英社
消費される階級 (酒井順子)の要約
表面的な平等が進む現代社会では、内なる格差意識が密かに膨張しています。一見差別のない「均質化された世界」。しかし、その裏側では個人の本質的な価値や能力がより厳しく評価され、微妙な立ち位置の調整が求められるのです。私たちは、目に見えない格差の時代に適応し、生き抜く術を学ぶ必要があるのです。
「階級をつけずに、人を比べなければならない」時代とは?
人が2人いればすぐに上下をつけたくなる人間という生き物は今、もしかしたら本能なのかもしれないその「上下差をつけたい」という欲望を内に秘めつつ、「違いを認め合い、すべての人が横並びで生きる」という難題に挑もうとしています。 (酒井順子)
エッセイストの酒井順子氏は、現代社会が直面する最も困難な課題の一つである「階級」に光を当てています。それは、「違いを認め合い、すべての人が横並びで生きる」という、一見理想的でありながら実現が極めて困難な命題です。著者はこの難題に真正面から向き合い、その矛盾と複雑さを丹念に紐解いていきます。
人間社会において階級や序列を設ける傾向は、歴史を通じて普遍的に見られる現象です。しかし現代社会は、すべての個人の尊厳と平等を尊重するという理念を掲げながら、同時に人々の間に存在する差異や格差を認識し、対処しなければならないという難しい局面に立たされています。
本書が鋭く指摘するのは、この理想と現実のギャップがもたらす社会的な緊張と矛盾です。時代が変化し、ダイバーシティの名のもとに個々の違いを尊重することが求められるようになりました。しかし、相変わらず差別や偏見が存在するのも事実で、SNSなどでは匿名での酷い投稿が横行しています。この矛盾した状況下で、人々は新たな形で階級意識を表現し、消費するようになっていいます。
著者が指摘するように、私たちは「階級をつけずに、人を比べなければならない」時代に生きています。この表現は、現代社会が抱える根本的なジレンマを鮮やかに言い表しています。 人間には生来、他者と比較し、序列化する本能があります。これは生存競争や社会的地位の確立に関わる進化の過程で培われてきたものです。
しかし、現代社会では表面上、こうした比較や序列化を否定し、すべての人を平等に扱うべきだという社会規範が強まっています。 この矛盾は、様々な形で社会に表出しています。
外見至上主義(ルッキズム)をめぐる議論も、この矛盾を如実に表しています。一方では、外見による差別や偏見への批判が高まっています。「見た目で人を判断するべきではない」という声が強くなっているのです。しかし同時に、美容や自己啓発への投資が増大しているという現実があります。
教育分野においても、現代社会が抱える矛盾は鮮明に表れています。「すべての子どもに等しく教育の機会を提供する」という崇高な理念が掲げられる一方で、競争原理に基づく学力向上の要請が強く存在しています。この2つの相反する価値観の共存は、教育現場に大きな緊張をもたらしています。
表面的には、義務教育制度や様々な教育支援策によって、全ての子どもたちに平等な学びの機会が保障されているように見えます。しかし、現実には家庭の経済状況によって、受けられる教育の質や量に大きな差が生じています。
特に近年、貧困層の増加と富裕層の教育投資の拡大により、この格差は更に拡大する傾向にあります。経済的に余裕のある家庭は、子どもに高額な塾や予備校、海外留学などの機会を提供することができます。一方、経済的に困窮している家庭の子どもたちは、基礎的な学習環境の確保すら困難な状況に直面することがあります。 この状況は、新たな形の階層化を生み出しています。
表面的には平等な教育制度の下で、実質的には家庭の経済力によって子どもたちの将来の可能性が左右されるという、隠れた不平等が進行しているのです。 さらに、この問題は単なる学力の差にとどまりません。経済的に恵まれた環境で育つ子どもたちは、多様な経験や人的ネットワークを通じて、将来の社会進出においても有利な立場に立つ可能性が高くなります。これは、世代を超えた社会的不平等の固定化につながる危険性をはらんでいます。
表面上は平等を謳いながら、実質的には個人の能力や成果による序列化が行われているのです。 このように、現代社会は表面的な平等主義と潜在的な序列化欲求の間で揺れ動いています。この矛盾を完全に解消することは難しいかもしれません。
見えない階級の時代をどう生きるか?
階級社会においては、親が属する階級に子供も属すわけで、多少の努力や根性では、階級の移動はほぼ不可能とされています。
形式的な身分制度は消えたものの、経済力の格差によって生まれる「見えない階級」が、今なお社会に根強く存在しています。この経済的階級は、往々にして世代を超えて受け継がれていきます。裕福な家庭に生まれた子供は、質の高い教育を受け、良い職に就くための準備が整えられます。
一方、経済的に恵まれない家庭の子供たちは、そうした機会に恵まれないことが多いのです。 この状況下で、近年若者の間で「親ガチャ」という言葉が生まれました。これは、自分の生まれた環境が運任せであり、それが将来の人生を大きく左右するという認識を表現しています。
経済的な階級は、表面上は「努力次第で上昇可能」とされているため、より複雑な問題を引き起こします。成功した例外的な人物を引き合いに出し、「努力さえすれば誰でも成功できる」という論理で、個人の責任を強調する風潮があるのです。 確かに、田中角栄元首相のように、恵まれない環境から這い上がった人物もいます。彼らは並外れた才能と強靭な精神力で、階級の壁を打ち破りました。
しかし、こうした例は極めて稀であり、多くの人々にとって現実的な目標とはなりにくいのです。 現代の日本社会では、政治家の世襲や既得権益の固定化など、階級の固定化を示す現象が目立ちます。若者たちは、努力だけでは乗り越えられない社会構造の壁を感じ、不公平感を強めています。「親ガチャ」という言葉の背景には、こうした社会システムへの批判的な視点があります。
ポリコレ意識の変化により、世が”正しく”なり続けていることです。様々なハラスメントはもちろん、他人を下に見たりカテゴライズすることもご法度。そんな正しい世では、自分の「正しくなさ」が日々、我が身を削るのです。とはいえそんな世においても、様々な格差や、人を上に見たり下に見たりする欲求は残り続け、 その欲求は水面下で膨張しているのではないか。
現代社会は、表面的な平等と公平性を追求する「正しさ」の潮流の中で、急速に変化を遂げています。差別や偏見に対する社会的な批判が高まり、制度的な不平等の是正が進む一方で、人々の内面に潜む格差意識や優越感、劣等感といった感情は完全には消え去っていません。むしろ、表立って表現することができなくなったがゆえに、これらの感情は水面下で静かに、しかし確実に膨張している可能性があります。
日本社会は、今後もこの「正しさ」の追求を続け、表面的な格差や差別の更なる減少が予想されます。その結果として生まれる「均質化された世界」は、一見すると誰もが平等に扱われ、機会が公平に与えられる理想的な社会のように見えるかもしれません。しかし、この一様に整えられた社会環境は、新たな課題を生み出す可能性を秘めています。
表面上の差異が取り除かれた世界では、個人の真の能力や価値がより鋭く問われることになります。形式的な平等が保証されているからこそ、個々人の特性や才能、努力の差異が際立つのです。このような環境下では、表面的には平等でありながら、実質的な競争はより激しくなる可能性があります。
さらに、この「均質化された世界」は、一見平坦で歩きやすく見えながら、実は非常にバランスを取りにくい社会であるとも言えます。表面的な障壁が取り除かれているがゆえに、個人は常に自己の立ち位置を確認し、他者との関係性を慎重に維持しなければなりません。些細な言動や態度の違いが、予期せぬ摩擦や軋轢を生む可能性が高まるのです。
この新たな社会環境を生き抜くためには、より繊細なバランス感覚と強靭な精神力が求められます。表面的な平等の下に潜む複雑な社会構造や隠れた不平等を見抜き、それらを適切に扱う能力が必要となるのです。同時に、自己の価値を客観的に認識し、他者との健全な関係性を築く力も重要になります。
著者が指摘するように、私たちは「大変な時代」に生きています。階級や格差を否定しつつも、それらを暗黙のうちに求め、消費する社会。この矛盾に満ちた現実を直視し、どのように向き合っていくべきかを考えることは、現代を生きる私たちにとって避けては通れない課題です。階級や差別が見えなくなる時代は、より生きにくくなっていると感じるのは私だけでしょうか??
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