言語化するための小説思考 (小川哲)の書評

assorted books on brown wooden shelf

言語化するための小説思考
小川哲
講談社

言語化するための小説思考 (小川哲)の要約

小説とは、読者という「顔の見えない他者」との対話である──小川哲氏の『言語化するための小説思考』は、その前提から創作の思考を丁寧に掘り下げていきます。誰のために書くのか。面白さとは何か。明確な答えのない問いに向き合いながら、著者はプロットに頼るのではなく、偶然を構造に取り込みながら物語を練り上げていきます。

書き手の都合ではなく、他者を意識する

小説に限らず、(他者に読まれることを前提として書かれた)あらゆる文章表現に共通しているのは、その文章に価値があるかどうかを決めるのが「他者」という点である。文章は「他者」のため、より正確に言えば「作品のため」に書かれるべきであって、自分を大きく見せるために書かれるべきではない。(小川哲)

「地図と拳」を読んで小川哲氏のファンになった私は、まだ全作品を追いかけている熱心な読者というほどではありませんが、そのストーリーテリングの巧みさと高いエンターテインメント性には以前から強く惹かれていました。そんな背景もあって本書の存在を知ったとき、迷うことなく手に取っていました。

特に言語化するための小説思考というタイトルは、自分の読書体験をどのように言葉にしていくかを常に意識している書評ブロガーの私にとって、見過ごすことのできないテーマだと感じられたのです。

とりわけ印象的だったのが「その文章は誰のために存在しているのか」という、とてもシンプルでありながら逃げ場のない問いかけでした。文章を紡ぐとき、つい「自分が書きたいこと」や「自分が気持ちよくなる言葉」に意識が向かいがちですが、本書はそこにストップをかけ、「それは本当に読者にとって必要な一文なのか」と問い直す視点を突きつけてきます。

読者にとって不要な情報や、作者の自己満足でしかない一文が積み重なることで、作品全体の輪郭がぼやけ、メッセージの核心がかえって遠ざかってしまうのだと、改めて気づかされました。

書評ブログを書いていると、「これは自分では分かっているから説明を省いてもいいだろう」「この一文は気分が上がるから残しておきたい」といった甘えが、気づかないうちに文章のあちこちに紛れ込んでいきます。

読み返してみると、書き手である自分のテンションや事情はよく分かるのに、初めて読む人にとっては置いてきぼりになっている箇所が少なくありません。

本書は「この文章は、読者の役に立っているか」「読者は続きを読みたくなるか」という観点から文章を見直すことの大切さを、何度も思い出させてくれます。 その視点を意識しながら読み進めるうちに、自分の文章との向き合い方も少しずつ変わっていきました。

書き終えたあとに「ここは自己中心になっていないか」「このメタファーで伝わるか」などを考える習慣が生まれ、不要な一文を削ることへの抵抗感が薄れていきます。

読者とのコミュニケーションで重要なこと

小説とは一種のコミュニケーションだ。著者は読者に向けて何かを語り、読者は語られた内容を読んで著者が伝えたいことを理解しようとする。コミュニケーションがうまくいくためには、語り手が聞き手に対して適切に情報を与えなければならない。

小説家はつねに、「読者は何を知っているのか」「どこまで書けば、わかってもらえるのか」「これ以上書くと、説明過多になってしまわないか」といった問いに頭を悩ませながら、文章を書いていると著者は述べています。

読書は友人でも編集者でもなく、顔の見えない赤の他人です。だからこそ、その赤の他人にどれだけ伝えられるか、どこまで想像して言葉を設計できるかが、小説家としての力量を大きく左右します。

著者が示すのは、単に文章力や表現力の話ではありません。読者がどの位置にいるのかを見定め、その理解の一歩手前で手を差し伸べるように情報を配置していく──そんな緻密な構成力と配慮が、小説というコミュニケーションには欠かせないのです。

伝えすぎても、伝えなさすぎても、物語は機能しません。だからこそ、小説家は「知っていること」と「知らないこと」のあいだのわすがな領域で勝負する必要があるのです。

「想像力」という言葉は、物語を生み出すための才能として語られがちですが、著者はそれ以上に、「顔の見えない読者を想定する力」こそが小説家にとって本質的だと考えています。

私自身は、小説を読むときに想像力をめいっぱい働かせて、自分なりに物語を広げていくのが好きなタイプです。だからなのか、作者の意図とは違う読み方をしてしまうこともよくあります。でも、それこそが読書の楽しさなのかもしれません。

好きな作家の作品を再読すると、以前の誤読に気づいてハッとすることがある。あの瞬間が、たまらなく面白い。正確に読むだけが読書じゃない、ということをいつも思い出させてくれます。

本書で印象に残ったのは、「文章力」や「語彙力」よりも、読者との距離感をどう測るかが大事だ、という視点です。読者がどのあたりにいるのかを想像し、その少し手前に情報を配置する。先回りしすぎても白けてしまうし、出し惜しみすれば置いていかれる。だからこそ、小説家には、読者の「まだ知らないけれど、知りたいこと」を察知する力が求められます。

その力は、かなり特殊なコミュニケーション能力と言ってもいいかもしれません。 そして著者が語る「想像力」の意味にも、ハッとさせられました。ふつう、想像力というと物語を創り出すための力だと思われがちですが、著者はそれよりも、「顔の見えない読者を想像する力」のほうが、もっと大切だと言います。

どんな人がこの文章を読んでいるのか。どうすれば伝わるのか。それを考え抜いた先に、小説としての説得力が生まれる。本書を読んでいると、小説家はただ物語を語る人ではなく、顔の見えない読書と向き合い続ける仕事なのだと、じわじわ実感させられます。

著者はふだん、小説を書くときにプロットを用意しないと言います。あらかじめ物語の筋を決めておくのではなく、書き進めながら展開を探っていくというスタイルです。多くの人にとっては不安に感じるような方法ですが、それでも作品としてのまとまりが生まれているのは、ある独特な発想によるものです。

その発想とは、「書いてしまった文章を、あとから伏線として機能させるにはどうすればいいか」と考える、逆方向の物語構築です。出来事の前後を入れ替えるのではなく、すでに書かれたものに意味を与えるようにして、物語全体に整合性を持たせていきます。

一見すると無計画に見えるかもしれませんが、実際には非常に柔軟で、巧妙な作り方です。書きながら組み立てていくスリルと、あとから意味づけしていく構成力。そのバランスが、著者の創作スタイルを支えているのだと感じました。

小川哲氏のアイデアから作品作りのプロセスとは?

小説家は、抽象化と個別化を通じて、知らない世界について書く。(中略)読者が「この小説は私について書かれている」と感じるとき、小説家はあなたのことを知っているわけではなくて、小説家自身のことしかわからない──わからないのだが、自分の体験を抽象化し、抽象化した構造を個別化する作業に成功しているのだ。

小川氏はカミュの『ペスト』を例に、「抽象化と個別化」の力について語ります。異国の過去の時代の物語でありながら、コロナ禍において多くの日本人が『ペスト』を自分の物語のように感じたのは、描かれている主題が「疫病に直面する人間」という普遍的な構造を持っていたからだといいます。

作家は自分の経験をそのまま書くのではなく、抽象化し、別のかたちで個別化する。そのプロセスがうまく機能すれば、「この小説は私のことを描いている」と読者に思わせる力が生まれます。

とりわけ「視点人物と読者の情報量の差を最小化することで読みやすさが生まれる」という指摘は、ブログを書く身として深く腑に落ちました。伝えたいことより、伝わること。何をどう削るかもまた、表現の本質なのだと感じました。

書評ブロガーとして特に刺さったのは、「感想を丁寧に語ること」と「読者に意味のある情報を届けること」は似て非なる、という気づきです。

書評というのは、自分の気持ちを書くことも大切ですが、それだけでは、どうしても自己満足にとどまってしまうことがあります。だからこそ、読み手の視点を想像しながら言葉を選ぶ意識が欠かせません。その意識が芽生えることで、書き手としての視野は確実に広がっていきます。

本書が示してくれるのは、そうした「書き手の意識の持ち方」にとどまりません。「小説家とは何者か」という問いに対しても、新たな視座を与えてくれます。

小説は、ひらめきだけで一気に書き上げられるものではありません。小川氏が描いているのは、アイデアの種をどこで拾い、どこから語り始め、どの情報を提示し、どの要素をあえて伏せるのか──そうした判断の連続が、物語を立ち上げるという現場感です。

そのプロセスは想像以上に緻密で、繊細な選択の積み重ねで成り立っています。 本書では、著者の創作体験や書き下ろしの文章を通じて、その思考の流れが明晰に示されています。

とりわけ印象に残ったのが、「桃太郎」を題材にした三つの展開例です。 どの案も同じ素材を用いながら、何を残し、何を削るかという取捨選択の違いによって、立ち上がる世界がまったく異なる。構造が変われば、物語が変わる。その変化のプロセスを追体験することで、物語に潜む構造的な可能性が見えてきます。

また、「七十人の翻訳者たち」の執筆プロセスも紹介されています。この文章を通じて、著者が「聖書は人類史上最も読まれたベストセラーであること」と「競走馬における三代始祖」という、まったく異なる二つの発想から物語を立ち上げていった過程が明らかになります。その着想の意外性と飛躍に引き込まれ、私自身、自然とスメラミシングを読み始めていました。

著者は、小説のアイデアに必要なのは特別な発想力ではなく、「偶然を拾い上げる力」だと語っています。執筆中にふと現れる違和感やひらめきを見逃さず、そこから構想を膨らませていく。その柔軟さこそが創作の源だという考え方に、深く共感しました。

たとえば「七十人の翻訳者たち」では、「七十人訳聖書の語感がいい」とか「聖書って、物語界のサンデーサイレンスみたいだな」といった、執筆中の素朴な気づきが物語の基礎になっていると言います。

僕の考えが「プロットを作ること」と共存できるのかは、僕がプロットを作らない以上わからないのだが、個人的には共存できると思っている。プロットの段階で面白い小説は、それほど存在しないと思うからだ。プロットを実際に作品にしていく中で、どれだけ偶然を回収し、元のアイデアをより洗練させていくか、ディテールを膨らませ、本筋と繋げるか、という点にも、小説の秘密が隠されているのではないかと思っている。

著者の創作スタイルを象徴しているのは、事前にプロットを綿密に設計するのではなく、創作という流れの中で偶然に出会い、それをどう受け取るかという姿勢です。プロットを構築するために机の上で唸るよりも、書いていく過程で出会う違和感や気づきを柔軟に拾い上げていく。その積み重ねが、物語の有機的な広がりを支えているのです。

「AIにはまだ、小説の“面白さ”がわからない」。この小川氏の問いが、本書の核心を象徴しているように思います。面白さは数値では測れず、定義も定まらない。だからこそ、「面白いとは何か」を考え続ける姿勢自体が、小説という営みを内側から支えているのです。

問いに答えるのではなく、問いと共にあり続けること。読者という未知の他者を想定しつつ、自分の言葉で世界を立ち上げていく。その緊張感と持続力に、小説家としての矜持がにじみ出ています。書くとは、答えを出すことではなく、問いを手放さないことであるというメッセージは、起業にも通じるものがあります。

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この記事を書いた人
徳本昌大

■複数の広告会社で、コミュニケーションデザインに従事後、企業支援のコンサルタントとして独立。
特にベンチャーのマーケティング戦略に強みがあり、多くの実績を残している。現在、IPO支援やM&Aのアドバイザー、ベンチャー企業の取締役や顧問として活動中。

■多様な講師をゲストに迎えるサードプレイス・ラボのアドバイザーとして、勉強会を実施。ビジネス書籍の書評をブログにて毎日更新。

■マイナビニュース、マックファンでベンチャー・スタートアップの記事を連載。

Ewilジャパン取締役COO
Quants株式会社社外取締役
Mamasan&Company 株式会社社外取締役
他ベンチャー・スタートアップの顧問先多数
iU 情報経営イノベーション専門職大学 特任教授 

■著書
「最強Appleフレームワーク」(時事通信)
「ソーシャルおじさんのiPhoneアプリ習慣術」(ラトルズ)
「図解 ソーシャルメディア早わかり」(中経出版)
「ソーシャルメディアを使っていきなり成功した人の4つの習慣」(扶桑社)
「ソーシャルメディアを武器にするための10ヵ条」(マイナビ)
など多数。
 
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