スマホ時代の哲学 「常時接続の世界」で失われた孤独をめぐる冒険 (谷川嘉浩)の書評

black samsung android smartphone turned on displaying icons

スマホ時代の哲学 「常時接続の世界」で失われた孤独をめぐる冒険
谷川嘉浩
ディスカヴァー・トゥエンティワン

スマホ時代の哲学  (谷川嘉浩)の要約

スマホ時代の常時接続が「つながっているのに寂しい」という感覚を生んでいます。谷川嘉浩氏の『スマホ時代の哲学』は、孤独と孤立の価値を見つめ直し、他者の思考を取り入れた読書や自己対話によって、思考の深まりを提案します。孤独は退けるものではなく、創造と自己理解の原点なのです。

スクリーン越しの孤独。常時接続時代の哲学の役割

自力思考が平凡なアウトプットに陥るのは、自分がすでに持っている考え(=先入見)を再提出しているにすぎないからです。未知を注意深く観察して問題に取り組むはずだったのが、自分がすでに正しいと心のどこかで思っていた事柄を「結論」や「意見」として差し出しているだけだということです。(谷川嘉浩)

「つながっているのに寂しい」──この違和感は、スマホ時代を生きる多くの人々に共通する感覚かもしれません。谷川嘉浩氏のスマホ時代の哲学 「常時接続の世界」で失われた孤独をめぐる冒険は、そんな現代の私たちに対して、哲学の視点から一つの答えを提示しようとする試みです。

現代社会において、スマートフォンを通じた情報摂取や対話は、もはや空気のような存在になっています。日常的な行動のほとんどが、画面を介して処理されるようになった今、私たちはその影響に無自覚なまま、自らの感性や思考様式を変容させつつあります。

哲学者のマーク・フィッシャーは、こうした変化を的確に指摘しています。彼によれば、私たちは今、無数の感覚刺激やコミュニケーションの即時性に慣れすぎてしまい、それらが少しでも途切れると「退屈だ」「最悪だ」と感じてしまうようになっています。

言い換えれば、常に何かに接続されていないと落ち着かない感覚構造に、知らず知らずのうちに順応してしまっているのです。 この刺激依存の状態は、単なる感覚の問題にとどまらず、「知」に対する向き合い方にも影響を及ぼしています。

近年ビジネスの現場では「教養」の必要性が盛んに語られるようになりましたが、東浩紀氏はこの風潮に対して鋭い疑義を呈します。彼が批判するのは、表層的知識を瞬時に取り出せることを教養と錯覚する風潮です。

たとえば、音楽のイントロを聞いてすぐに曲名を当てるスキルがもてはやされるように、知識の早押しゲームが教養だと勘違いされているというのです。 東氏が強調するのは、本来の教養とは「音楽のある生活を送ること」で、知識を競うことではないのです。

すなわち、知識を知識として保持するのではなく、それに耳を傾け、日常に息づかせること。これは読書にもそのまま当てはまります。どれだけ多くの本を読んだかではなく、読んだことがいかに生活や思考に影響を与えているかこそが、教養の本質です。

読書とは、知識を「所有する」技術ではなく、それを「生きる」態度に関わります。書物を通じて得た言葉や思想が、日々の選択や感じ方にどのように作用しているか。知を取り込み、熟成させ、自らの感性を耕す。その営みが、まさに現代に求められる教養であり、哲学的な実践だと著者は指摘します。

本書は知識をため込むことではなく、それを使って現代の生き方を見直す力を私たちに与えてくれる一冊です。情報に溢れ、つながりが当たり前になったはずの社会の中で、なぜ私たちはこれほどまでに孤独を感じるのか。この問いに正面から向き合い、孤独と共に生きる力を取り戻すためのヒントを、本書は丁寧に示してくれます。

読み進めるうちに、私たちは自分自身の思考の癖や限界に気づき、それを超えて考えるための視座を手に入れていけます。

自分の頭だけで考えてはいけない理由

「自分たちの手だけで何かができる」という自力思考的な発想を疑い、自分の思考に警戒心を持つこと。「自分の頭で考える」の代わりに私が勧めたいのは、「他人の頭で考える」ことです。

谷川氏は本書のなかで、現代人の思考の癖に静かに疑問を投げかけています。なかでも、よく使われる「自分の頭で考える」という言葉に潜む思考の罠について読者に問いかけます。この言葉は、あたかも知的に自立した姿勢を象徴しているように見えます。しかし実際には、自分の中にすでにある思考パターンや先入観を、無意識に繰り返しているにすぎない場合が多いと著者は指摘します。

私たちは未知の問いに向き合っているつもりでいても、気づかぬうちに、既成の枠組みのなかで安心し、あらかじめ用意された答えに頼ってしまいがちです。そうして自分の思考が「開かれている」ようで実は閉じているという状態に、私たちは陥りがちです。このような“考えたつもり”の状態では、思考の幅も深さも限られたものになってしまいます。

著者が提案するのは、そうした閉塞から脱するための一つの方法としての「他人の頭で考える」という姿勢です。これは決して他人の意見に従うという意味ではありません。むしろ、自分とは異なる視点や思考のリズム、想像力を一時的にでも自分のなかに取り入れてみる。そうすることで、自分自身の見方や考え方の構造を柔らかく解体し、編み直すことができるのです。

このような態度は、知識を「持っている」だけでは到達できません。知識とともに「生きる」こと、自分の思考と感性を変容させていくことが求められます。読書はまさに、その実践の場です。誰かの言葉にじっと耳を傾けるように、他者の思考に揺さぶられること。それによって、自分の中に「他者」を住まわせる想像力が育まれていきます。

谷川氏が繰り返し語るのは、自覚なき自己完結性の危うさです。自分の思考が同じ場所をぐるぐると回っていることに気づかず、「考えている」と思い込んでいる状態。それこそが、思考の最大の停滞要因なのです。だからこそ、迷っている自分を認め、その迷いのなかに留まり続けること。それが、思考を開き直す第一歩になります。 このようにして読書を捉え直すと、それは単なる情報収集ではなく、知的な旅になります。

著者の言葉と呼吸を合わせ、問いの中を歩いていく時間。そのなかで私たちは思考の限界を知り、またそれを超えていく視点を手にしていきます。本書では、ニーチェやパスカル、アーレント、オルテガといった哲学者の言葉から、『エヴァンゲリオン』や村上春樹氏の『ドライブ・マイ・カー』のような現代作品に至るまで、多様な言葉が読者の思考を刺激する素材として紹介されています。

読書とは、新しい場所に旅するようなものです。見慣れない街角を歩きながら、はじめは戸惑いも感じるでしょう。しかしその土地に身を置いてみることで、景色の見え方が少しずつ変わり、やがて自分自身の感覚にも静かな変化が訪れる。そのように、読書もまたページをめくるごとに、私たちの内面に新たな風景を開いてくれます。

重要なのは、それらを読み流すのではなく、自分の生活に連れ帰ることです。本の中で出会った問いが、自分の行動や感じ方に影響を与えるようになる。そうした読書体験こそが、知識を消費するのではなく、感性を変容させる読書につながります。読書は、著者と読者がともに歩む対話であり、言葉の地図を手に進む知的冒険なのです。

私にとっても、読書は「行動につながる体験」です。本を読むことは、知識を蓄えることにとどまらず、言葉との出会いが日々の選択や価値判断を揺さぶってくれる実感と結びついています。読書とは、情報の消費ではなく、ものの見方や感じ方の土台を無理なく組み替えていく営みであるべきなのです。

著者の「他者の思考を一時的に内在化する」という読書観は、私自身が大切にしてきた「言葉を行動に転化する」という読書の姿勢と深く響き合っています。読むという行為を通して、自分の限界を認識し、それを乗り越えるための視座を獲得していく。そのような読書を求めている人にとって、本書はきっと、自分の考え方を広げてくれる力強い一冊になるはずです。

孤独と孤立が重要な理由

スマホ時代に必要なのは孤独と孤立であり、それらがあってこそ、自分を浸している感覚に耳を澄ませ、衝撃的な体験(強い情動体験)と折り合いをつけていくことができます。そのときに動いているはずの感情のしっぽを捕まえ、それが指し示す先をまなざすために、私たちには孤独(自己対話)が必要です。

スペインの哲学者オルテガは、現代人が「ごちゃごちゃと集まり、自分の中ですべてを完結させて、他人の話も聞かずに喋りまくっている」ことに違和感を抱き、「沈黙」「警戒」「聞く」といった態度の価値を評価しました。都市のように多様な他者が集う場でこそ、自分の手持ちの意見に固執せず、未知のものに対して慎重であるべきだというのです。

オルテガは、現代人の自己完結的な思考と行動様式を「エゴイズム」や「迷宮」にたとえ、注意深く観察する姿勢の欠如を厳しく批判します。特に問題なのは、私たちが「自分は迷っていない」と信じ込んでいる点にあります。

実際には、正確な自己理解もないまま、すでに持っている判断や思い込みで物事を決めつけている──それこそが最も厄介な種類の迷子なのだと、彼は指摘します。 「自分は迷子ではない」という無自覚な前提が、他者への傍若無人な断定や、物事への表面的な理解を可能にしています。

私たちは、自分以外の他人や状況に対しては容易に疑いを向け、好き勝手な判断を下しますが、自分自身の思考や感情、態度に対してだけは、その問いを差し向けようとしません。そこに、きわめて洗練された自己逃避の形が表れているのです。

オルテガは、このような態度を打破するには、まず「自分は迷子である」と認めること、そしてその迷いとともにとどまる勇気が必要だと説きます。すぐに答えや解決策を出そうとする誘惑を抑え、そうしそうになる自分自身にこそ疑いを向ける──その慎重で内省的な態度の中にこそ、哲学的な成熟が宿るのです。

どんな些細な変化も見逃さずにいようと静かにして耳を澄ませ、どんな対策をしても絶対はないと疑い、自分だけは大丈夫などとは思わず、安易な判断や決めつけを避けて、いろいろな人と協力し合いながら警戒を続けるということのほかにないでしょう。

本書が提示するもう一つの重要なテーマは、「孤独の再発見」です。スマートフォンによる常時接続は、私たちから孤独を感じる時間を奪い、その代わりに寂しさを加速させているのではないかと著者は語ります。 死や別離といった大きな衝撃と向き合うには、孤独が必要です。

何でもすぐにネットに投稿したり、誰かと常につながっていたりすることは、実は大切なものを見失う努力をしているようなものかもしれません。

スマートフォンに慣れた現代人は、心を揺さぶられるような出来事に対して、自分の感情をきちんと受け止め、言葉にすることが難しくなっているようにも映ります。

ハンナ・アーレントの言葉を借りれば、孤独とは「沈黙のうちに自らとともにあること」、つまり自分自身との対話の時間です。この孤独を経験するには、まず孤立——他者や情報から一時的に距離を取る状態——が必要です。

しかし、今の私たちは、その孤立すらも許されない環境に生きているのかもしれません。何か一つのことに取り組み、それに集中するにはあまりに気が散っていて、いろいろなコミュニケーションや感覚刺激の多様性が、一つのことに没頭することを妨げてしまっています。

この「孤立の喪失」は、マルチタスキングによる注意の分散のことであり、これは、メディア技術が可能にした「アテンションエコノミー」の一つの帰結でもあります。 孤立は何らかのことを成し遂げるために必要な、誰にも邪魔されずにいる状態を指しています。創造的なことでなくても、何かに集中して取り組むためには誰かが介在してはならないのです。

たとえば何かを学んだり、一冊の書物を読んだりする際には、他者の存在から守られているという静けさが求められるのです。 アーレントは、孤独と寂しさを区別するとき、孤独が孤立(一人でいること)を必要とするのに対して、寂しさは「他の人々と一緒にいるときにも最もはっきり表れてくる」と述べています。

スマホというメディアは、寂しさからくる「つながりたい」「退屈を埋めたい」といった欲求に巧みに応答します。スマホを含む情報技術は、いつでもどこでも使える上に、私たちのタスクを同時並行に処理可能にしてしまいました。コミュニケーション、娯楽、その他あらゆる刺激を途切れなく流し込むことで、自己対話をやめさせ、感覚の渦の中へと私たちを巻き込みます。

こうしたマルチタスキングは、確かに寂しさや不安を一時的に覆い隠してくれますが、それぞれのタスクに没頭することができないまま、次々と断片的な刺激に追われていく状態でもあります。ふと立ち止まったときに残るのは、「あれは何だったんだ」という空白の感覚であり、たとえ誰かとつながっていたとしても、自分がどこか一人であるという実感なのです。

常時接続の世界では、つながりが増えれば増えるほど、逆説的に「一人ぼっち」という感覚が強まっていく。この不思議な状況こそ、アーレントが語った寂しさの本質を映し出しています。人と一緒にいても通知が鳴っていても、理解されていないという感覚に苛まれる。その不安や退屈を埋めるために、私たちはさらに接続を求めるという循環に陥っているのかもしれません。

ニーチェの自己逃避という概念、オルテガのエゴイズム批判、そしてアーレントによる寂しさの構造分析は、いずれも現代人が孤独という思考の場をどのように捉え、あるいは回避してきたのかを示唆的に浮かび上がらせます。

彼らの哲学がここで照らしているのは、単なる感情の問題ではなく、私たちの思考と存在のあり方そのものなのです。つながりが簡単に手に入る現代だからこそ、むしろ私たちは思考を深めるための孤独を、自覚的に選び取る必要があるのです。情報の奔流に流されるのではなく、自分の内側に静かに潜っていく時間こそが、創造的思考の出発点になるのです。

つながりが簡単に手に入る現代だからこそ、むしろ私たちは思考を深めるための孤独を、自覚的に選び取る必要があるのです。情報の奔流に流されるのではなく、自分の内側に静かに潜っていく時間こそが、創造的思考の出発点になるのです。

スマホ時代にネガティヴ・ケイパビリティが必要な理由

私たちが共有すべきスローガンは、「注意の分散に抵抗せよ、孤独を持て」です。スマホは私たちのタスクを複数化し、従ってそのために要する注意を寸断してばらばらにしています。うわの空の状態では、人が話していることに含まれる言外の感情的・非言語的意味を捉えそこないやすいし、そうした不注意さは、他者とのやりとりだけでなく、自己理解にも発揮されるというのです。

私たちが共有すべきスローガンは、「注意の分散に抵抗せよ、孤独を持て」です。スマートフォンは私たちの活動を絶えず並行処理に追い立て、注意を断片化し、深い集中を困難にしています。このような分散状態では、他者の語りに含まれる繊細な感情のニュアンスや非言語的なメッセージを見落としやすくなります。

それだけでなく、自分自身の内面に対する理解も曖昧になりがちです。思考や感情を丁寧に掬い取るには、外部からの刺激を最小限に抑えた、静かな時間と空間が必要なのです。

ネガティヴ・ケイパビリティとは、自分こそが迷っているのではないかと問い直す力だと著者は定義します。把握しきれない謎をそのまま抱えておくことによって、そこから新しい問いや発見が生まれます。その姿勢こそが、哲学を通じて培われるのです。

哲学を学ぶことは、他者の想像力という一筋縄ではいかない思考と向き合い、自分の枠組みを揺さぶられる体験でもあります。そのプロセスは、すぐに答えを求めず、不確かさにとどまり続ける力――ネガティヴ・ケイパビリティを鍛える反復練習のようなものです。

そして著者は、趣味の時間を持つべきだと言います。何かを作ったり、育てたりする時間は、外の世界の喧騒から少し距離を取り、自分の内側と静かに向き合う貴重な機会になります。

とりわけこの書評ブログを書く時間は、私にとってフロー状態に入れる特別な時間です。著者の言葉と出会い、それについて考え、言葉にする。この小さな営みの中に、深い対話が生まれているのです。

自分の外に謎をつくり、その謎としばらく同居するように生きていく。ネガティヴ・ケイパビリティの視点に立てば、明快な解決を急ぐのではなく、分からなさとともにあり続けることの価値に気づくことができます。

そのような姿勢こそが、今という時代において私たちが大切にすべき孤独との向き合い方なのです。 孤独は恐れるものではなく、私たちが自分自身と対話し、世界とつながるための土台となるものです。

ここで少し立ち止まって考えてみたいのは、いわゆる「自分の声に従え」という自己啓発のメッセージについてです。著者は、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学のスピーチで語った「自分の心と直感に従うこと」という言葉にも問いを投げかけます。

一見魅力的なこのメッセージは、多くの若者に勇気を与えましたが、その背後には見過ごせない前提が潜んでいます。しかし、このメッセージは「自分の中に一つの本当の声があり、それを信じれば人生は正しく進む」という、やや単純化された前提に立っています。

実際には、私たちの心の中には多様な声が交錯し、時に矛盾しながら共存しています。自己とは一枚岩ではなく、むしろ複数の視点や感情のダイナミズムのなかで揺れ動く存在なのです。内なる声が複数あるのだとすれば、どの声に従うかは慎重な選択を要するはずです。

また、ジョブズのメッセージでは「他人の声」はしばしば「ノイズ」として扱われますが、実際には他者の視点やまなざしは、自分という存在を浮かび上がらせる鏡でもあります。むしろ他者に見られること、他者の言葉を通じて自己像を調整することが、成熟した自己形成には不可欠です。

ジョブズの言葉を無批判に信じると、結果的に自分の内なる多様性を否定し、「正しい声」を探すあまり、他の可能性を排除する危険すらあるのです。

こうした自己啓発的な考え方には、もう一つの落とし穴もあります。それは、すべての変化を個人の努力に帰する「自己責任」の圧力です。「自分が変われば現実も変わる」という語り口は、一見ポジティブに思えるかもしれません。

しかし裏を返せば、状況が改善しないのは個人のせいであるという暗黙のメッセージになりかねません。 そのような思考様式は、社会的・構造的な問題を個人の内面に押し込めてしまうものです。私たちはもっと、自分の内と外、そして他者との関係性の中で自己を見つめる視点を持っていい。

単に「心の声に従え」と言うのではなく、「どの声を選び取り、どの声を聞き流すのか」を見極める思索こそが、今の時代に必要とされているのです。そうした発想は、環境や社会の複雑さを軽視し、変化のすべてを個人の内面に押し込めてしまいます。私たちはもっと、自分の内と外、そして他者との関係性の中で自己を見つめる姿勢を持ってよいはずです。

スマホ時代に本当に必要なのは、孤独と孤立です。これらがあってこそ、私たちは自分が置かれている状況に深く浸り、その中で静かに動いている感情の揺れや兆しに耳を澄ませることができます。

人生の節目や思いがけない出来事——たとえば死別や失敗のような衝撃——と向き合うとき、私たちはそれらをすぐに処理したり合理化したりせず、いったん立ち止まって、内面の動きに目を凝らす必要があります。 そのためには、他人の視線や絶え間ない情報の波から離れ、ひとり静かに過ごす時間が不可欠です。

感情の細やかな変化をとらえ、その背景にある意味を掘り下げていくためには、孤独と孤立の中でじっくりと自分の内側と対話する姿勢が求められます。そうした時間の中で初めて、自分が本当に向き合っているもの、自分を突き動かしているものの正体が、少しずつ明らかになっていくのです。

外から与えられる意味や価値ではなく、自らの感覚で確かめ、形づくっていくプロセス。この静かな営みこそが、自分という存在をもう一度組み直し、新たな足場をつくるためのかけがえのない時間なのです。

スマートフォンが生み出した常時接続の時代にあっても、思考と想像の営みは静けさの中にこそ育ちます。本書を通して見えてくるのは、孤独こそが人間らしく生きるための余白であり、未来をかたちづくるための起点でもあるということ。だからこそ、今こそ私たちはもう一度、孤独の力を信じてみるべきなのです。

最強Appleフレームワーク


この記事を書いた人
徳本昌大

■複数の広告会社で、コミュニケーションデザインに従事後、企業支援のコンサルタントとして独立。
特にベンチャーのマーケティング戦略に強みがあり、多くの実績を残している。現在、IPO支援やM&Aのアドバイザー、ベンチャー企業の取締役や顧問として活動中。

■多様な講師をゲストに迎えるサードプレイス・ラボのアドバイザーとして、勉強会を実施。ビジネス書籍の書評をブログにて毎日更新。

■マイナビニュース、マックファンでベンチャー・スタートアップの記事を連載。

Ewilジャパン取締役COO
Quants株式会社社外取締役
株式会社INFRECT取締役
Mamasan&Company 株式会社社外取締役
他ベンチャー・スタートアップの顧問先多数
iU 情報経営イノベーション専門職大学 特任教授 

■著書
「最強Appleフレームワーク」(時事通信)
「ソーシャルおじさんのiPhoneアプリ習慣術」(ラトルズ)
「図解 ソーシャルメディア早わかり」(中経出版)
「ソーシャルメディアを使っていきなり成功した人の4つの習慣」(扶桑社)
「ソーシャルメディアを武器にするための10ヵ条」(マイナビ)
など多数。
 
徳本昌大 Amazonページ >
 

徳本昌大をフォローする
リーダーパーパスフレームワークコミュニケーションウェルビーイング習慣化書評ブログアイデアクリエイティビティライフハック
スポンサーリンク
徳本昌大をフォローする
Loading Facebook Comments ...

コメント

タイトルとURLをコピーしました