河合隼雄の幸福論
河合隼雄
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河合隼雄の幸福論 (河合隼雄)の書評
河合隼雄とアラン。時代も立場も異なるふたりの「幸福論」は、現代を生きる私たちに、「幸福とは気づくこと」だと語りかけてきます。完璧を求めず、効率に縛られず、日々の中にある小さな喜び──笑顔や会話、そして余白の時間──に目を向けること。それだけで、人生は想像以上に豊かさを帯びてきます。幸福とは誰かから与えられるものではなく、自分の内側で育てていくものなのです。
アランと河合隼雄の幸福論
内部の感情は、外部の運動を必要とする。もし、どこかの暴君が、権力を尊敬することを教えるために、私を投獄するとすれば、私は毎日一人で笑うことをもって、健康の規則とするだろう。私は足を運動させるようなぐあいに、私の喜びを運動させるだろう。(アラン)
幸福論といえばアランが有名ですが、なぜ今もなお多くの読者を惹きつけてやまないのでしょうか。 仕事、学び、人間関係、SNSのノイズに揺さぶられる現代の私たちにとって、たとえ100年前に書かれた哲学書でも、アランの文章は不思議と古びることがありません。 むしろ今だからこそ、その一文一文がまるで“心のエネルギー補給”のように、私の中にスッと入ってきます。
今回、改めて『幸福論』を読み返してみて、本当に良かったと思いました。 読むたびに新しい気づきがあり、何より元気になれる。 気負わずに読めるのに、深くて、あたたかくて、心の奥に小さな火を灯してくれるような感覚があります。
彼が語る幸福は、生まれつきの性格や環境といった外側の条件ではなく、自分の「態度」と「意志」によってつくり出されるという、極めて実践的なものです。 私たちが落ち込むとき、まず感じるのは“気分”です。不安、怒り、焦り。アランは、こうした感情をそのまま信じるなと説きます。むしろ感情は「後からついてくるもの」であり、行動の結果として整っていくのだと指摘しています。
「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」──これはアランが残した幸福に関する有名な言葉です。 笑顔をつくれば心も軽くなり、背筋を伸ばせば世界の見え方が変わり、淡々とやるべきことを片づけていけば不安は後退します。 まさにこの行動が感情をつくるという逆転の発想こそが、アランの幸福論の核心です。
さらにアランは、幸福を決めるのは「解釈のスタイル」だと強調します。 同じ出来事でも、悲観的に見れば不幸に感じられ、建設的に読み替えれば前向きになれる。 ここには現代の認知行動療法にも通じる知恵があります。外の世界を変えられなくても、ものごとの意味づけを変えることで、心の自由は取り戻せるのです。
では、幸福になるために大きな目標が必要なのかといえば、アランはむしろその逆を語ります。日常の小さな選択──丁寧に観察する、体を動かす、人に優しくする──こうしたささやかな反復が幸せになる秘訣です。派手さはありませんが、この地道な態度の積み重ねこそが、長期的に確かな幸福をもたらすとアランは語っています。
結局のところ、アランが教えてくれるのは、「幸福は偶然の贈り物ではなく、自分でつくる技術である」という点に尽きると思います。
われわれ大人が子どものころは、ものがないこと、学校に行きたくても行けないことなど「──がない」という不幸が多かった。そこでどうしても、「ものがある」「学歴がある」などということを幸福と思い、それを追いかけ追いかけして、いろんなものが手にはいったものの、果たしてそれがほんとうの幸福かという疑問が生じてきた、と言っていいだろう。(河合隼雄)
アランの『幸福論』を再読する中で、昔読んだ河合隼雄氏の河合隼雄の幸福論を思い出しました。久しぶりに本書を開いてみると、その言葉のひとつひとつが、以前とは違う深さで心に響いてきます。 歳を重ねたからなのか、それとも日々の生活の中で、少しずつ自分の「幸福観」が変わってきたからなのかもしれません。
河合氏もまた、幸福を「がんばって追いかけるもの」ではなく、「あることに気づくもの」として語っています。 人とのつながりの中に、小さな喜びがぽつりと顔を出す瞬間。 完璧ではない日々のなかに、やわらかくにじむあたたかさ。 その「揺らぎ」を受け入れられる余白こそが、幸福の土壌になるのではないかと思えてきます。
かつて「足りないこと」=「不幸」とされた時代を経て、私たちは「満たすこと」を幸福と信じて突き進んできました。 物を手に入れ、選択肢を増やし、自由になったはずなのに、なぜか心は満たされない。 本当に大事なものを見失ってしまったような、そんな感覚がどこかにあります。
幸福になりたければ、時間のバランスを意識しよう!
時間に追いまくられ、その分だけシカメツラになり、笑顔は消えてゆく。
これは、河合隼雄氏が残した、現代人への鋭い警鐘のような言葉です。 一日の予定に追われ、心を亡くすように働いて、気づけば顔から笑みが消えている──そんな毎日に、私たちはどこかで慣れてしまっているのかもしれません。 でも、アランの説に従えば、笑顔が消えるということは、幸福が遠のくということです。
つまり、時間に追われて笑顔を失っていけば、知らぬ間に不幸の方へ足を踏み入れてしまうのです。 豊かさを追い求めて、忙しく働くこと自体が悪いわけではありません。 でも、もしその結果、心がすり減り、笑うことすら忘れてしまうなら──それは本末転倒です。 幸福になるために働いているはずなのに、不幸になってしまっては意味がありません。
完璧を目指さなくていい。予定通りにいかなくてもいい。予定外の時間にこそ、私たちは大切なものに出会えるのかもしれません。効率や成果ばかりを追いがちな日々の中で、あえて「余白の時間」を確保すること。 その重要性を、あらためて認識させられました。
人生には楽しいことが多く、もとで無しで大分楽しむことができる。
河合氏のこの言葉に触れると、私の中に根づいていた価値観が揺らぎます。 幸福を手に入れるのに、特別な才能も、高価なツールも必要ない。 むしろ、それは日々の暮らしの中に、すでにさりげなく散らばっているのかもしれません。
たとえば、朝のカフェラテ。 子どもとの何気ないやりとり。 散歩をしている時の深呼吸。 そうした小さな出来事を意識できるどうか。 その視点の違いだけで、人生は驚くほど豊かに感じられるのです。
『河合隼雄の幸福論』は、もともと新聞連載をもとに編まれたエッセイ集で、全60本の短編が収められています。 家族や親子関係、グリム童話や日本の昔話、常識、成功と失敗、そして人生そのものまで──扱われているテーマは多岐にわたります。 それでもどの一篇も、やさしく読みやすく、静かに、そして深く、読む人の心に語りかけてくるのです。
体系立てられていないからこそ、どこからでも読み始められる。 そして、そのどこかの一節が、不意に自分のいまとぴたりと重なってくる──そんな体験ができる本です。
個人的にとても印象に残っているのが、ダニエル ピンクウォーターのらくがきフルートという絵本に関するエッセイでした。 最初に読んだときとは違い、子育てを経た今あらためて読み返すと、河合氏の言葉が胸の奥にじんわりと広がり、幸せな時間を過ごせました。
アランと河合隼雄。 時代も文化も立場も異なるふたりの言葉ですが、どちらも私たちに「幸福とは何か?」を静かに問いかけてきます。 それは、誰かから与えられるものではなく、自分の中で気づき、育て、少しずつ築いていくもの。 派手な達成感ではなく、もっと静かで、もっと深い充足なのかもしれません。
だからこそ、忙しさに流される日常の中で、ときどき立ち止まってみることが大切なのだと思います。 笑顔を取り戻す時間。 心を緩める余白。 そして、小さな幸福に気づく目を養うこと。 そのほんの少しの意識の差が、私たちの人生にあたたかな光を灯してくれる。 そんなことを、アランと河合氏の言葉から、あらためて教わった気がします。
















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