吉田松陰と松下村塾の志士100話
山村竜也
PHP研究所
吉田松陰と松下村塾の志士100話 (山村竜也)の要約
萩の松下村塾は、吉田松陰を中心に高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋らを輩出しました。松陰は脱藩による謹慎中も読書に没頭し「睡餘事録」を残し、野山獄では『幽囚録』を著して思想を体系化しました。黒船来航後には『将及私言』を執筆し、西洋式兵制や軍艦建造を提言するなど合理的な攘夷論を展開しました。その学びと実践は門下生に受け継がれ、明治維新の大きな推進力となったのです。
吉田松陰の学びの本質とは?
長期謹慎は退屈でたまらないものだが、松陰にとっては、書物さえあれば実に幸福な時間だったのである。(吉田松陰)
先日、山口県萩市の松下村塾を訪れました。木造の小さな建物の前に立ったとき、若い頃に読んだ司馬遼太郎の『世に棲む日日』を思い出しました。あの作品で出会った吉田松陰や高杉晋作たちの姿が、今まさにこの土地の空気の中から立ち上がってくるように感じられたのです。
萩という町は決して広くはありません。しかし、その限られた空間から、吉田松陰をはじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋といった幕末・明治維新を支えた人材が次々と生まれました。これは偶然ではなく必然だと強く感じます。互いに顔を合わせ、語り合い、刺激を与え合う。狭い地域に凝縮されたコミュニティの濃密さが、これほどの人材を生んだのだと思わずにはいられませんでした。
歴史作家・時代考証家である山村竜也氏の吉田松陰と松下村塾の志士100話を読むことで、その感覚はさらに確信に変わりました。本書の巻頭には幕末の萩城下の住宅地図が掲載され、松陰や高杉、久坂らの住居が示されています。実際に街を歩いてみると、彼らがごく近い距離で生活し、日常的に刺激を受けながら成長していったことがよくわかります。学びは閉じられたものではなく、人と人とが交わる空間の中でこそ深まっていったのです。
松陰の学びの姿勢をよく示すのが、肥前平戸を訪れ葉山左内に学んだときのことです。遠方から訪れた松陰を葉山は快く迎え、著作を貸し与えました。
書を読む者は其の精力の半ばを筆記に費すべし。
松陰は宿に戻って夜遅くまで読み込み、感銘を受けた部分を丁寧に筆写しています。学びとは単に知識を摂取することではなく、心に刻み込み、行動に結びつける営みであると彼は理解していたのです。また、この筆写を松下村塾の門下生たちにも求めたのです。
松陰は東北遊学を志して脱藩し、そのために長期の謹慎処分を受けました。しかし彼はその時間を失意のものとはせず、徹底的な学びの機会としました。「睡餘事録」には、「日本書紀」「続日本紀」「日本逸史」「文章軌範」「史記」「魯西亞本紀」「海外新話」「大岡仁政実録」など、おびただしい数の書物を読破した記録が残されています。この徹底した学びが、彼の思想の厚みを支える基盤となりました。
この謹慎生活の中に自然と仲間が集まり、小さな学びの場は広がりを見せ、やがて松下村塾へと発展していきます。
その学びの積み重ねは、ペリーの黒船来航時に顕著に表れました。安政元年八月に執筆した外国対策の意見書『将及私言』には、西洋式兵制の採用、オランダからの軍艦購入、さらに国産による軍艦建造といった、現実的で柔軟な施策が記されています。 当時の攘夷論者の多くは外国を「異賊」と断じ、拒絶一辺倒に終始していました。しかし松陰は異なりました。攘夷を唱えつつも、合理性と説得力を伴う具体策を示したのです。
さらに野山獄に収監されても学びを止めず、『幽囚録』を完成させました。下田での密航未遂を振り返りつつ、海外情勢や日本の進むべき道を論じた大論文であり、思想を体系化した著作でした。後に門下生の間で長く読み継がれ、行動の指針となっていきます。
松陰は外国を否定しながらも、その文明を学び、利用しなければ対抗できないと考えていました。感情に流されることなく「学びを実践にどう結びつけるか」を冷静に見据えていたのです。この姿勢は松陰を単なる理論家ではなく、現実を生きる実践者として際立たせました。そしてその柔軟な思考こそが、後進に受け継がれた最大の財産となったのです。
維新につながる松蔭の志
心というものは、生きている。生きているものには必ず発動のはずみがある。発動のはずみは物事にふれることで起き、感動することで動く。この発動のはずみを与えてくれるのが旅なのである。
松陰は生涯に八度の旅を重ねました。九州遊学、東北周遊、江戸での佐久間象山への入門、熊本での横井小楠との出会い、そして下田での密航未遂。いずれの旅も、彼にとっては未知との出会いであり、自らを刷新する契機となりました。松蔭の旅は単なる移動ではなく、心を動かすための仕掛けであり、そこにこそ学びの本質があったのです。
松陰は本から学び、人から学び、旅によって新たな師を絶えず見つけていたのです。 松下村塾は、その精神を体現する場でした。身分や年齢を問わず門下生を受け入れ、儒学や兵学、史学をテーマに自由闊達な討論が行われました。そこでは一方的に知識を授けるのではなく、互いに考えをぶつけ合い、切磋琢磨する関係が築かれていました。
松陰自身の居場所は決まっていたわけではなく、生徒のそばに臨機応変に移動しながら、一人ひとりに応じた指導を行ったと言います。彼は個々の資質や関心を的確に見極め、それぞれの強みを引き出すことに力を注いでいたのです。松陰の存在はまさしく触媒であり、門下生たちは自らの志を見出し、それを現実の行動へとつなげていきました。
蟄居により旅に出られなくなった松陰は、「飛耳長目」を実践しました。飛ぶ耳と長い目の名の通り、塾生に情報を持ち寄らせ、世間の出来事を徹底的に収集したのです。松下村塾は本州の西端にありながら、日本全国の情報が集まる拠点となりました。
まさに現代の新聞社や情報ネットワークのような存在であり、地方にいながらも時代の最前線とつながっていたのです。こうして松陰は旅に代わる新しい学びの方法を編み出し、塾を知的中枢へと変えていきました。
安政の大獄で松陰を失った後、中心を担ったのは久坂玄瑞でした。百回忌には松下村塾で読書会が行われ、遺書『留魂録』が教材になった可能性を著者の山村氏は指摘しています。さらに久坂が始めた「一燈銭申合」という写本の仕組みで得られる収入はごくわずかでしたが、その営みは金額以上の意味を持ちました。散りかけていた塾生たちは写本を手に取りながら再び集い直し、師の言葉を通じて志を確かめ合ったのです。
そして結束を取り戻した若き志士たちは、松陰の遺志を背負い、尊王攘夷という時代の奔流へと果敢に身を投じていきました。
松陰が死んで17年。その間に松下村塾の塾生たちは師の遺志を継ぎ、悲願の幕府打倒をなしとげた。松陰が命を賭けて示した「大和魂」は、確かに塾生たちに受け継がれていたのだ。そして、それは彼らの心のなかで育まれ、明治維新という大輪の花となって開花した。犠牲もまた大きかったが、そのぶんだけ確かな実を、花は結ぶことができたのである。(山村竜也)
門下生たちの後の活躍を見れば、松陰の影響がどれほど大きかったかがわかります。高杉晋作は奇兵隊を組織し、久坂玄瑞は理想と情熱で藩を牽引しました。木戸孝允は薩摩との調整役を担い、維新の推進力となりました。
伊藤博文は日本初の内閣総理大臣となり、その後4度も政権を担った政治家であり、近代日本の基礎を築いた立役者です。山県有朋は2度内閣総理大臣を務め、軍制や教育制度の整備を進めて国の枠組みを形作りました。彼らはそれぞれ異なる分野で日本の近代化を推進しましたが、根底には松陰から受け取った志が脈々と流れていたのです。
松陰は本を通じて知を吸収し、人と出会って思考を鍛え、旅を通して自分を揺さぶり続けました。学びは閉じたものではなく、出会いの中で生きています。
私自身も旅の中で人生を変える出会いを経験してきました。ある人の言葉が、ある土地での体験が、自分を一歩前に進めてくれた瞬間があります。その経験があるからこそ、松陰の学びと旅の姿勢に強い共感を覚えます。
心を発動させ、新たな師を見つけ、自分を更新していく。その姿勢は今を生きる私たちにとっても大切なヒントを与えてくれます。 萩という小さな町からこれほどの人材が育った背景には、コミュニティの濃密さと、学びを触発するリーダーの存在、そして絶えず心を動かし続ける旅の力がありました。
志は人から人へと伝わり、次の行動を生み、新しい人を育てていきます。松陰の人生を辿ることは、その連鎖の大切さを改めて教えてくれる営みでした。そして私自身もまた、まだ見ぬ師を求めて旅を続けたいと強く思っています。
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