
書籍:新・消費論 コト消費、性的消費、応援消費……誰もが語りたがる「神話」の正体
著者:林凌
出版社:中央公論新社
ASIN : B0H7B1N29Y

【書評】『新・消費論』コト消費の神話を解体し、意思決定の質を上げる
「モノ消費からコト消費へ」「Z世代の応援消費」「タイムパフォーマンスを重視したタイパ消費」——私たちのビジネス環境は、日々新しい「〇〇消費」という言葉で溢れ返っています。
新商品の企画書やマーケティング会議の場において、こうしたバズワードはもはや疑いようのない共通言語のように使われています。これらのトレンド用語を企画書に散りばめておけば、市場の最先端を捉えたような安心感を覚える実務家も少なくないでしょう。
しかし、ここで深く思考を掘り下げてみると景色が変わります。私たちは本当に、その言葉が指し示す顧客のリアルな感情や文脈、背後にある複雑な行動メカニズムを理解しているのでしょうか。それとも、もっともらしい言葉を消費することで、ただ分かった気になっているだけなのでしょうか。
驚くべき歴史的事実が存在します。1989年の日経流通新聞(現・日経MJ)には、「かつての一点豪華主義のモノ消費から、時間や空間などソフトに積極的に投資するコト消費へと流れている」という記述が明確に刻まれています。
つまり、35年以上も前から、「コト消費」は常に「新しいトレンド」として語られ続けてきたのです。そして現代においても、多くのメディアやマーケターの言説で「コト消費」が最先端の現象であるかのように繰り返し主張されています。これは、「コト消費」という言葉が具体的に定義されないまま、常に「新しい時代」の到来を告げる便利なマジックワード(神話)として、時代を超えて再生産され続けている何よりの証拠です。
今回取り上げる林凌氏の『新・消費論 コト消費、性的消費、応援消費……誰もが語りたがる「神話」の正体』(中公新書ラクレ)は、私たちが無自覚に依拠している「消費」という概念の曖昧さを徹底的に解体する、きわめて知的刺激に満ちた一冊です。
著者の林凌氏は、現代社会においてあらゆる事象が「消費」という一つの箱に押し込まれ、結果として現実のディテールや本質が削ぎ落とされている構造に強い警鐘を鳴らしています。
戦略立案や新規事業開発に携わる実務家にとって、本書の指摘は耳が痛いと同時に、思考の霧を一気に晴らしてくれる処方箋となります。曖昧な概念に頼った戦略は、必ずピントのずれた凡庸な施策しか生み出さないからです。
ベンチャー企業の成長支援や経営戦略の現場においても、経営陣が「コト消費」のようなバズワードに寄りかかっている時ほど、顧客理解の解像度が著しく低下している瞬間はありません。言葉の解像度の低さは、そのまま意思決定の質の低さに直結します。
情報過多であり、高度なテクノロジーがビジネスの前提となった現代において、人間に求められるのは「言葉の解像度」を極限まで引き上げることです。バズワードの罠を見抜き、事象を構造で捉え直す力こそが、これからの知的生産の核となるはずです。
この記事でわかること
・「消費」という言葉が持つ本質的な曖昧さと、それに依存する思考停止のリスク
・35年以上前から変わらぬ「神話」として再生産され続ける「コト消費」のカラクリ
・マーケターの「若者論」が、実は読み手にカタルシスを与えるための「都合のいい物語」である構造
・1980年代のポストモダニズムから続く「消費」という反概念への依存
・社会に深く内在する「消費=悪」という観念と、「消費=善」とするパラドックスのメカニズム
・バズワードを疑い、「構造で考える」習慣がビジネスにおける意思決定の質を上げる理由
30秒でわかる本書のポイント
【結論】
・私たちが無自覚に使う「消費」という言葉は、社会現象を説明しているようで、実は深い顧客理解を妨げる強固な壁になっています。
・「コト消費」は35年前から存在する内実のないバズワードであり、複雑な現実から目を背けさせる神話として機能しています。
・現実の複雑な事象を「消費」という大雑把な一つの枠組みで処理する思考のアプローチから脱却し、事象のディテールを見つめ直すべきです。
【原因】
・マクロな経済データ(無形財への移行)を、個人の心理的な動機(体験を求めている)へと強引に結びつけるマーケター言説が蔓延したためです。
・1980年代以降のライフスタイルの変化の中で、既存の語彙で説明できない現象を「消費」という曖昧な概念でやり過ごしてきたためです。
・「〇〇消費」という言葉の曖昧さが、多様なヒット商品を都合よく説明し、読み手にカタルシスを与える便利な道具として重宝されたためです。
【対策】
・最新のトレンドワードを鵜呑みにせず、その言葉が何を隠蔽しているのかを常に「構造で考える」習慣をつけることが重要です。
・「消費」という言葉を一旦封印し、顧客のリアルな行動や欲望をより解像度の高い具体的な言語で記述し直す作業が必要です。
・過去のパラダイムである「消費社会」という神話を終わらせ、自らの頭で概念を問い直すことで、ビジネスにおける判断の質を引き上げましょう。
本書の要約
本書は、「消費」という言葉がいかに曖昧でありながら、私たちの社会理解の基盤として機能してしまっているかを解き明かす、社会学と批評を越境する考察です。
著者は、現代の消費語りが持つ3つの謎(なぜ曖昧なのか、なぜ規範性が付与されるのか、なぜ広く社会記述の語彙として普及したのか)を設定し、「コト消費(マーケティング論)」「性的消費(ジェンダー論)」「応援消費(オタク論)」の3つの系列から分析を進めます。
1980年代のボードリヤール受容やポストモダニズムに端を発する「消費社会論」の歴史を辿りながら、マーケター言説が読み手にカタルシスを与えるためのトリックを暴き出します。さらに、消費を「良きもの」とするオタク論と、「悪しきもの」とするジェンダー論の対比を通じて、社会に内在する消費への価値観を浮き彫りにします。
私たちが世界を正確に認識するための「言葉の解像度」を取り戻し、「終わり損ねた消費社会」に終止符を打つための、強靭な知的足場を提供する一冊です。
こんな人におすすめ
・「コト消費」「タイパ」などのトレンドワードになんとなく違和感を抱いているマーケター
・自社のプロダクトやサービスの「本当の価値」を本質から再定義したい事業責任者・経営層
・表面的な現象に流されず、意思決定の質を根本から上げたいと考えるマネジメント層
・顧客心理を深く理解し、本質的で持続可能な経営戦略を構築したい実務家
・社会学や思想の観点から、現代のビジネス事象を深く読み解きたい教養人
本書から得られるメリット
・世の中に流布するバズワードに騙されず、事象の裏側を「構造で考える」力が身につきます。
・「消費」という言葉の呪縛から逃れ、顧客の真の欲求を見抜く本質的な視座が手に入ります。
・マーケターが紡ぐ「都合のいい物語」を見破り、顧客の消費実態をつかめます。
・マクロなデータとミクロな顧客心理を混同する「マーケティングの罠」を未然に回避できます。
・独自の言語で市場を定義し直すことで、他社と差別化するための「独自の問いを立てる力」が養われます。

35年来の神話「コト消費」を解体する——言葉の解像度を取り戻す
私たちはなんとはなしに、様々な文脈で消費という言葉を使ってしまう。だがそうした言葉の用法は、実のところ多くの矛盾を孕んでいる。この矛盾が諸言説の中に明確に表れているにもかかわらず、私たちは〈消費〉をなにか統一された観念として理解できてしまっている。(林凌)
私たちがビジネスの現場で最も無自覚に使っているバズワードの筆頭が、「コト消費」です。「モノからコトへ」という移行図式は、企画書のタイトルやマーケティング会議において、もはや共通言語として機能しています。
多くのビジネス書やセミナーでも、この「モノからコトへ」というパラダイムシフトが自明の前提として扱われてきました。しかし、歴史的な事実を丹念に確認してみると、その前提は脆くも崩れ去ります。
先述の通り、1989年の時点で、すでに日経流通新聞において「一点豪華主義のモノ消費から、時間や空間などソフトに積極的に投資するコト消費へと流れている」という記述が存在します。
これは何を意味するのでしょうか。「コト消費」という概念は決して近年の新規な発見ではなく、マーケターの言説において、常に「新しい時代が訪れている」と主張するための「神話」として使われ続けてきたということです。
なぜこれほど長期間にわたり、誰もが「コト消費」という言葉を使い続けるのでしょうか。武蔵大学社会学部メディア社会学科准教授の林凌氏は、それが「具体的な内実を取り決めることなく作られた言葉」であり、その曖昧さゆえに生き残ったのだと鋭く指摘します。もし「コト消費」の定義が厳密であれば、時代の変化とともにその現象が去れば言葉も廃れます。
しかし、「モノ消費ではない消費」という程度のふんわりとした定義しかないため、実質的にこの世に存在するあらゆる無形財やサービスのヒット要因として、後付けで利用可能になってしまうのです。
私たち実務家は、この事実を重く受け止める必要があります。企画書に「ターゲットのコト消費を喚起する」と書いた瞬間、私たちは深い思考を停止しています。目の前の商品が「なぜ、このタイミングで、特定の人に深く刺さったのか」というディテールの分析を放棄し、もっともらしいマジックワードに逃げ込んでいるだけなのです。
思い込みに騙されないためには、この便利で中身のない言葉を一度捨て去り、独自の言語で市場を定義し直すことが求められます。
著者は、「コト消費」という言葉が、あらゆる現象を説明できる便利な概念として使われていることに疑問を投げかけます。その問題の核心は、「経済全体の変化」と「個人の購買動機」が混同されている点にあります。
確かに、日本経済では、企業や家計の支出が「モノからサービスへ」と移行し、無形財の市場が拡大しています。これは統計的に確認できるマクロな変化です。 しかし、マーケターはこの事実を、「消費者はモノではなく、体験を求めるようになった」という個人レベルの欲求へと置き換えて説明してきました。ここには大きな論理の飛躍があります。
サービス市場が拡大していることと、特定の商品やサービスが売れた理由は別の問題です。サービス市場の中には、旅行、教育、医療、娯楽、通信など、性質の異なる無数の分野があります。あるサービスがヒットした理由を、単に「コトだから」と説明しても、その成功要因を明らかにしたことにはなりません。
私たちはこの社会が、かつてと比べて何か変わったと感じている。だが、その変化を既存の語彙でうまく説明することができない。であるならば、私たちはこの変化をできる限り曖昧な概念(=「反概念」)に依拠することで、あたかも説明したかのようにやり過ごした方が良い。〈消費〉は、このときその究極的な動因を個々人の欲望というブラックボックスに回収できるがゆえに、やり過ごしのための逃げ道として機能することとなります。
ところが、「モノからコトへ」という経済全体の変化を示す言葉が、いつの間にか、個別の商品やブームが生まれた理由まで説明する万能概念として使われるようになりました。
これが著者の指摘する「マーケティングの罠」です。 「コト消費」が広く使われるのは、マクロな市場変化と個別の消費現象を、簡単につなげられるからです。どのような商品でも、使い方や購入後の体験に注目すれば、「コト消費」と説明できてしまいます。
しかし、すべての消費をコト消費と呼べるのであれば、その言葉から個々の商品の新しさや、特定のサービスが選ばれた理由を読み取ることはできません。つまり、「何も具体的に説明していないからこそ、何でも説明できるように見える」のです。
ビジネスの現場で「コト消費だから売れた」と結論づけても、次のヒットを生み出すための戦略的な示唆は得られません。必要なのは、便利なバズワードで消費行動を一括りにすることではなく、「誰が、どのような状況で、なぜそれを選んだのか」を具体的に掘り下げることです。個別の文脈と因果関係を丁寧に捉え、顧客の行動を構造的に考える力が、マーケターには求められています。
マーケターが紡ぐ「カタルシス」と都合のいい物語の罠
私たちが〈消費〉を用いて社会を語りたがるのは、それが書き手・読み手にとって都合のいい論理を容易に明確に導きうるからなのだと。
著者は、「コト消費」をはじめとする「〇〇消費」や「若者論」が、なぜ社会にこれほどまでに浸透するのかについて、極めて興味深い考察を展開しています。それは、マーケターの言説が、必ずしも厳密なデータや理論の積み上げによるものではなく、「読み手にとって都合のいい論理」を提供しているからです。
2000年代半ばから後半にかけて一世を風靡した「マイルドヤンキー論」や「下流社会論」などの若者論を思い返すとその実態が明らかになります。批評家の後藤和智氏が指摘するように、これらの書き手は往々にして、ターゲットされた中年層以上の社会常識(すなわち読み手)がエビデンスを軽視し、理解不可能な存在として若者を描き出してきたと言います。
そして、新たなビジネス上の気づきと同時に、他者理解の筋道を与えるという「一種のカタルシス」を提供しているのです。 私たちは、自分たちが理解できない新しい現象や若者の行動に直面したとき、不安を覚えます。そこに、「彼らは〇〇消費をしているのだ」という明快ながら安易な回答(ラベル)を与えられると、誰もが複雑で難解な答えを求めているわけではないため、容易にその論理に飛びついてしまうのです。
マーケターが新しい「消費」をことさらに論じるのは、それが新しい若者や社会の登場を語ることができる「スキル」だからです。しかし、いくらマーケターが「消費」を大括りにして社会を語ろうとも、その説明は実のところ謎に満ちていると著者は指摘します
私たちは、この「カタルシスを得るための物語」に騙されてはいけません。顧客の行動を、こうした大雑把な枠組みで処理するのではなく、事実を虚心坦懐に見つめ直すことが求められます。
では、なぜ「消費」という言葉が、これほどまでに私たちの社会を語る主役の座に居座り続けているのでしょうか。
その背景には、1980年代という時代精神が深く関わっています。 1980年代は、「ポストモダニズム」や「ポストフォーディズム」といった言葉に象徴されるように、「大きな物語の崩壊」が語られた時代でした。それまで西側諸国を支えていた大量生産・大量消費のフォーディズム的社会が揺らぎ、経済のグローバル化とともに産業構造が変化していきました。
この「モノからサービスへ」というマクロな転換の中で、「コト消費」のような発想が埋め込まれていったのです。 しかし、当時の知識人たちにとって、この社会の変化を正確に記述することは困難でした。そこで彼らは、「ポスト〇〇」といった過去の否定形や、「消費」という既存の語彙に依拠することで、あたかも何かを説明したかのように「やり過ごした」のです。
1980年代の「消費」は、明確な定義を持たない「反概念」として機能し、経済学の専門的パラダイムから飛び出して、人々の欲望を語るための魔法の杖となりました。
著者は、私たちがいまだにこの「1980年代に生み出された物語」を共有し、引き継いでいると指摘します。私たちが「コト消費」や「〇〇消費」を使うとき、実は40年以上前の「社会が変わった気がするが、うまく説明できない」という焦燥感と、それをやり過ごすための曖昧な概念枠組みを、無自覚に反復しているに過ぎないのです。私たちは、この「ポストモダンの亡霊」から脱却し、ゼロベースで現実の事象を見つめ直す勇気を持つべきです。
「悪しき消費」と「良き消費」のパラドックス——オタク文化とジェンダー論
現代社会におけるオタクとは、経済主体・消費の担い手としてのそれなのです。
本書の議論をさらに深みへと導くのが、消費という言葉に対するジェンダー論とオタク論の対比です。著者は、「消費」という言葉が全く逆の用法を可能とする懐の深い概念であることを指摘します。 私たちの社会には、「消費=悪」という観念が根強く内在しています。
ジェンダー論の文脈では、多くの場合、女性が消費されているということを告発するものでした。性的消費という言葉の広がりが示すように、この系譜においては消費者であることに対する負のイメージが絶えず付きまといます。女性は生産者たる男性に従属する受動的な消費者や、男性に消費される財でしかないという認識が提起されてきたのです。
この文脈において、消費という言葉は、商品の購買・利用の局面にて用いられる概念を、人間関係のアナロジーとして構造的に搾取されているという認識を説明するために利用可能にしました。
他方で、「応援消費」に代表されるオタク論における言説は、消費=購買が利他的であるという主張を展開し、消費する側が自らの活動を正当化する目的で生まれました。東日本大震災に伴う「応援消費」という言葉の広がりと対応するように、市場経済に回収されない人々への不信感から、消費=購買こそが最も倫理的な行為となるという論理が構築されていったのです。
「消費=善」とするこのパラドックスは、オタクたちが自らの私的な欲望を満たす活動を、社会や他者に対して良い影響を与える活動として主張するための便利な隠れ蓑となりました。
この目的の差異ゆえに、この二つの系列は「消費」を自らの議論の中に位置づける際のアプローチが180度異なるわけです。一方は自らが「消費される対象」であることの欺瞞や暴力を告発し、もう一方は自らが「消費する主体」であることの倫理性や利他性を主張します。 現代の企業経営において、この「消費に対する立場の違い」から生まれる摩擦は、非常に厄介なリスク要因となります。
ある層にとっては「尊い応援消費」として受け入れられるコンテンツが、別の層からは「女性の性的消費・搾取」として激しい批判を浴びる。「消費=悪(または善)」という単純な二元論に絡め取られてしまうと、本質的なリスクマネジメントは見えなくなります。
経営リーダーは、世間の感情論に流されず、特定の消費行動がなぜ賞賛され、なぜ非難されるのか、その背後にある「消費する側」と「消費される側」の社会的・文化的な力学をフラットに分析する冷静さが求められます。
著者の林氏は、本書の終盤で極めて重要な提言を行っています。それは、私たちが囚われている「終わり損ねた消費社会」を、私たち自身の手で終わらせなければならないという宣言です。 評論家の大塚英志氏は、1980年代の日本を「終わり損ねている」のではないかと主張していました。
過去にあった語り口が歴史性を忘却する形で幾度となく繰り返され、自分たちがどうしようもなく歴史的拘束にあることを誰も指摘しない状況。これこそが、私たちが「コト消費」や「〇〇消費」という言葉を無批判に使い続けている現状そのものです。
「われわれの社会が自らを語る語り口」としての消費がこの世を席巻したとき、「消費は一つの神話」となる。 「消費社会」は、この意味において私たちの言語的実践と切り離すことはできません。この世界を、あるいはその変化を記述するためには、消費という領域に着目しなければならない。こうした認識が維持され続けることで、神話もまた維持されるのです。
フランスの思想家ジャン・ボードリヤールは、「消費が一つの神話だ」と指摘しました。私たちが自分たちの生きる社会を「消費社会」と呼び、あらゆる出来事を消費という視点から説明するようになったとき、「消費」は単なる経済活動ではなく、社会を理解するためのナタティブになったのです。
いまや「消費」という言葉は、私たちの日常的な説明の中に深く入り込んでいます。新しい現象を語るとき、他者を批判するとき、あるいは自分たちの活動を正当化するときにも、「〇〇消費」という表現が使われます。
重要なのは、こうした言葉が現実を説明するだけでなく、私たちの現実の見方そのものを形づくっていることです。私たちは「消費社会」の外側から社会を観察しているのではありません。その言葉を使い、広め、ときには新たな「〇〇消費」を生み出すことで、消費という神話を自ら支えています。
だとすれば、私たちを「消費社会」という枠組みに閉じ込めているのは、社会や企業だけではありません。消費という言葉で自分や他者の行動を理解しようとする、私たち自身でもあるのです。この前提を疑うことから、これまで見えなかった社会の姿が見えてきます。
ビジネスの世界では、次々と新しい言葉が生まれ、やがて使い捨てられていきます。しかし、呼び方が新しくなったからといって、人間の根本的な欲求や経済活動の構造まで、数年で大きく変化するわけではありません。新しい言葉が、必ずしも新しい現象を表しているとは限らないのです。
だからこそ、私たちは自らに問い直す必要があります。 「コト消費」という言葉を使わずに、なぜ自社のサービスが選ばれているのかを説明できるでしょうか。「応援消費」に頼らずに、なぜファンがその企業や人物を支持し、時間やお金を投じるのかを具体的に語れるでしょうか。
こうしたバズワードを取り除いても説明できるのであれば、顧客の欲求や行動を深く理解できている可能性があります。逆に、言葉を外した途端に説明できなくなるなら、それは現象を理解したのではなく、便利なラベルを貼っただけかもしれません。
『新・消費論』は、私たちが無意識にかけている「消費という色のついたメガネ」を外し、現実を別の角度から見直すための視点を与えてくれます。 意思決定の質を高めるには、使っている言葉の解像度を上げなければなりません。
曖昧な概念をそのまま受け入れず、意味を分解し、その背後にある因果関係や構造を捉え直す。本書が示すこの知的な姿勢は、マーケターだけでなく、経営者や企画担当者をはじめ、すべてのビジネスパーソンにとって有効な思考の武器になるはずです。
コンサルタント 徳本昌大のView
企業が失敗する大きな原因の一つは、リーダーが曖昧な言葉を使い、組織内に認識のズレを生み出してしまうことです。コンサルティングや経営支援の現場で私が痛感するのは、「言葉の定義の曖昧さ」が、意思決定の精度を大きく低下させるという事実です。
たとえば「コト消費」という言葉を使えば、時代の変化を捉えた新しい戦略を語っているように聞こえます。しかし、そこでいう「コト」とは、商品を購入する体験なのか、サービスを利用する時間なのか、誰かと共有する物語なのか。その意味を明確にしなければ、議論は前に進みません。
さらに重要なのは、その言葉の定義を、経営層、マーケター、営業担当者、商品開発の現場までが、同じ解像度で共有できているかという点です。経営層はブランド体験を想定し、マーケターはイベント施策を考え、開発担当者は新機能の追加だと理解しているかもしれません。
同じ言葉を使いながら、それぞれが異なるゴールを見ていれば、組織の力は分散してしまいます。 曖昧な言葉からは、曖昧な目標しか生まれません。目標が曖昧であれば、施策や役割分担、評価指標も定まらず、最終的には「何を実現したかったのか」さえ分からなくなります。リ
ーダーに求められるのは、もっともらしい言葉を並べることではなく、抽象的な概念を具体的な行動や判断基準にまで翻訳することです。 私は毎朝、タスクを整理し、優先順位を明確にすることを習慣にしています。行動の迷いを減らすためには、何をするのか、なぜするのかを言葉にしておく必要があるからです。
ビジネスの思考においても同様に、「意味を説明できないバズワードを安易に使わない」という規律を日常化しなければなりません。 会議で新しい言葉が登場したときには、「それは具体的に何を意味するのか」「顧客のどのような行動を指すのか」「従来の概念と何が違うのか」と問い直す。
こうした小さな確認の積み重ねが、組織の思考を整え、意思決定の質を高めます。使う言葉の質がインプットの質を左右し、それが施策や成果というアウトプットの質、すなわち経営判断の成否を決定づけるのです。 本書『新・消費論』は、一見すると社会学や批評を扱った専門書のように見えるかもしれません。
しかし、その本質は、現代のマーケティングと経営に対する、極めて実践的な処方箋です。私たちが無意識に受け入れている消費の常識や、便利な言葉によって見えなくなっている市場の構造を、あらためて捉え直す視点を与えてくれます。 データや情報があふれる時代だからこそ、数字を集めるだけでは不十分です。
その背後で何が起きているのかを構造的に考え、世間の思い込みや既存の分類を疑い、自社ならではの視点から市場を再定義する必要があります。曖昧な言葉に流されず、消費者と市場をより深く理解し、確かな意思決定につなげたい経営者やマーケターに、強くおすすめしたい一冊です。
FAQ
Q1. 社会学や現代思想の専門知識がなくても読めますか?
A1. はい、十分に読めます。1980年代のポストモダニズムなどの思想的背景も丁寧に解説されていますが、基本的には「コト消費」や「応援消費」といった私たちが日常的に触れるテーマを起点に論が展開されます。マーケティング論のトリックなどを紐解く構成になっているため、ビジネスパーソンにとって非常に親和性が高く、知的好奇心を満たしながら読み進めることができます。
Q2. 著者が「コト消費」を批判しているのはなぜですか?
A2. 著者は「コト消費」という現象そのものを否定しているわけではありません。「コト消費」という言葉が、あまりにも曖昧な定義のまま便利に使われすぎていることを批判しています。あらゆるヒット商品を後付けで「コト消費」として括ってしまうと、その商品が持つ独自の価値や、顧客が本当に求めている微細な心理が見えなくなってしまうからです。思考停止を防ぐための批判と言えます。
Q3. 「コト消費」などのトレンドワードは今後一切使ってはいけないということですか?
A3. 完全に排除する必要はありませんが、「無自覚に使うリスク」を著者は強く戒めています。トレンドワードは社内外でのコミュニケーションを円滑にする便利なツールである反面、思考を停止させ、顧客の本質的な動機から目を背けさせる罠でもあります。言葉を使う前に「この言葉で括ることで、抜け落ちてしまう顧客の真実はないか」と一度立ち止まり、言葉の解像度を上げる、構造で考える習慣を持つことが、意思決定の質を上げる鍵となります。
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