万物の黎明 人類史を根本からくつがえす
デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ
光文社
万物の黎明 人類史を根本からくつがえすの要約
『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』は、人類の歴史について新しい視点から考える必要性を示し、様々な研究成果を紹介しながら、真実を追求しています。人類の歴史が従来の暗いイメージではなく、遊び心と希望に満ちた可能性で満ちていた可能性を示唆しています。
デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウの新たな歴史学とは
世界史をより正確に、そして希望をもって描くための第一歩は、エデンの園をきっぱりと捨て去ること、何十万年ものあいだ、地球上のだれもがおなじ牧歌的社会組織を共有していたという考えを放棄することだろう。(デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ)
私たちの祖先は、ジャン・ジャック・ルソーが語るような自由で平等な無邪気な存在であるか、トマス・ホッブズが描くような凶暴で戦争好きな存在であるか、を単純に分類することはできません。文明とは、ルソーのように本来の自由を犠牲にする必要があるのか、あるいはホッブズのように人間の卑しい本能を制約する必要があるのか、といった二者択一の捉え方だけでは十分に表現できない複雑さがあります。
標準的な世界史の語り方の中で最も有害な側面の一つは、すべてを単純なものに仕立て上げ、人間をあたかも包装紙のようにステレオタイプに還元し、複雑な問題を単純化することです。このアプローチは、人間の本質についての感覚を制限し、時には壊してしまいます。
例えば、人間は生まれつき利己的で暴力的な存在なのか、それとも生まれつき親切で協力的な存在なのか、といった単純な二分法で問題を捉えることは、人間の可能性に対する理解を狭め、失わせてしまう可能性があります。 このような単純化されたアプローチは、歴史や文化を理解し、異なる社会や個人を評価する際に重大な問題を引き起こすことがあります。
人間の行動や価値観は多様で複雑であり、歴史や文化の背後にはさまざまな要因や状況が影響を与えています。したがって、人間の行動や社会の機能を理解するためには、より深い洞察と複雑な視点が必要です。
人類の歴史は多様で複雑であり、私たちは過去の狩猟採集時代から平等主義で平和な社会から権威主義で暴力的な社会まで、さまざまな社会形態や政治形態を試行錯誤しながら経験してきました。私たちは歴史の中でさまざまな社会の変遷を経験してきたのです。
デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウは、人々が農耕を始めたり放棄したりしながら、あらゆる可能性を探求し続けてきたと指摘しています。農耕は人類にとって重要な転換点であり、人々は新たな生活様式を模索する中で多くの試行錯誤を行ってきたのです。私たちは農耕を通じて社会の発展を遂げ、さらなる進化を遂げるために努力してきたのです。
著者たちは、新しい視点から人類の歴史を提示するだけでなく、読者を新たな歴史学への探求へ招待したいと願っています。その視点によれば、人類の歴史は歴史学者がステレオタイプで簡略化したような退屈なものではなく、むしろ遊び心と希望に満ちた無限の可能性で満ちていたのです。彼らはルソーやホッブスだけでなく、ユヴァル・ノア・ハラリやジャレド・ダイヤモンドにも議論を挑んでいます。
実際、人類の歴史は、これまでの単純な枠組みを超えて多様で複雑なものでした。ヨーロッパで自由や平等が議論されるようになった背後には、大航海時代が大きな影響を持っています。この時期、ヨーロッパの探検家や商人たちは世界各地を航海し、異なる文明と接触しました。この出会いが、彼らに新しい視点をもたらし、従来の社会概念に疑念を抱かせたのです。
著者たちは、17世紀のヨーロッパの植民者とアメリカ先住民の知識人との一連の遭遇が、現代の啓蒙思想や人類史における基本的な考え方に大きな影響を与えたと論じています。この遭遇の再評価が、農耕、私有財産、都市、民主政、奴隷制、そして文明そのものの起源など、人類の過去をどのように理解するかについて、驚くべき洞察を提供しています。
ルソーのようなヨーロッパの思想家からは完全に袂を分かち、むしろ、彼らにインスピレーションを与えた先住民の思想家に由来するパースペクティブを検討することで、新たな歴史学が誕生したのです。
大航海時代は、ヨーロッパ諸国がアフリカ、アメリカ、アジアなどの異なる地域と交流し、新しい文化や社会構造と直面した時期でした。この交流により、ヨーロッパの人々は自分たちの社会概念が普遍的ではなく、異なる文化や価値観が存在することを理解しました。これは、自由や平等などの概念が単なる当たり前のものではないことを示唆しました。
異なる地域との交流によって、ヨーロッパ社会は新しいアイデアや思考の可能性を探求する刺激を受けました。これが、自由や平等に関する議論が活発化し、新しい社会概念や政治思想が形成される契機となりました。また、大航海時代における植民地主義や奴隷制度の実践も、自由や平等についての議論を刺激し、反対意見や改革の動きを生み出しました。
人類は、かつて複数の社会組織をそのメリットやデメリットをふまえ再構築していたのです。私たちはかつて未熟であったが、だんだん成熟していったのではなく、人類は当初より、成熟していたというのが著者たちの考えです。
人類は未熟な存在から成熟した存在へと進化していったのではなく、当初から成熟していたという視点が示唆するように、人類の組織構造は常に進化し続けるものであり、その成果が文明として知られているのです。
人類の歴史は自分達が思い描いていたものとは異なっている?
中東で農耕民が出現してから最初の国家と呼ばれているものが出現するまでには、およそ6000年の時間が経過しているが、世界の多くの地域では、農耕によってそんな国家のようなものが出現することはなかったのだ。
著者の2人は農耕の導入がホモ・サピエンスの繁栄に直結していたとする説に対して疑問を呈しています。彼らは、農耕が都市の発展の結果ではなく、むしろ都市の人口を支えるために始まったというストーリーを提唱しています。
彼らは、農耕以前から人類が大規模な集落を築いていたことや、農耕が私有財産の発展とは関連性がなく、不平等が農耕によって初めて発生したわけではないことを明示しています。また、階級が見られない都市遺跡も発見されており、これらの事実から、農耕による繁栄の物語に対して新しい視点を提供しています。
歴史を振り返ると、人口は増加し続け、定住者も増え、生産力も向上し、物的な余剰も増え、誰かの指導の下で働く時間も増えてきました。これは事実で、これらの傾向の間には何らかの関連性がある可能性があると考えるのは妥当です。しかし、その関連性の性質やメカニズムについてはまだ解明されていない部分が多いのです。
現代社会において、私たちが自由な個人として考える主な理由は、政治的な専制君主が存在しないことです。経済が政治とは異なる形で組織されており、自由ではなく効率性を基盤としていること、それゆえ職場が一般的に厳格な命令体系で運営されていることなどが、当たり前のこととみなされています。
そのため、不平等の起源についての現在の多くの仮説が、経済的変化、特に労働の世界に焦点を当てているのは、驚くべきことではありません。 ただし、この点でも、入手可能な証拠が多くが誤って解釈されている可能性があることを考えるべきです。
わたしがいいたいのは、こういうことです。(1)わたしたちはだれなのか、(2)わたしたちはどこから来たのか、(3)どのような歴史的変化によって、わたしたちは現在のわたしたちのようになったのか。このような観点から、人類の歴史についてできるだけ広いスケールで、イメージを頭に描いてください。そして、い まおもい描いたことがすべてまちがっていると想像してください。これが本書の基本的前提です。(デヴイッド・ウェングロウ)。
アメリカ大陸の先住民は『未開』とされましたが、実際には多彩な社会形態を持っていました。そして、ヨーロッパ人が新大陸の言語を学び、洗練された思想家から自分たちの誇り高い文明を知識的に批判された際、これに衝撃を受けたことは忘れてはなりません。
作家のケン・フォレットが指摘するように、知識の始まりは未知のことがいかに多いかを理解することから生まれるのです。
『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』は、人類の歴史について新しい視点から考える必要性を示し、様々な研究成果を紹介しながら、真実を追求しています。人類の歴史が従来の暗いイメージではなく、遊び心と希望に満ちた可能性で満ちていた可能性を示唆しています。
本書は人類史に興味を持つ人々にとって魅力的な一冊であり、従来の概念にとらわれず、新しい視点から人類の歴史を考えるきっかけとなるでしょう。この本を読むことで、人類の歴史についての理解が深まり、新たな発見があるかもしれません。再読すればするほど、多くの果実が得られそうな良書です。
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