ブルックリン化する世界 ジェントリフィケーションを問いなおす
森千香子
東京大学出版会
ブルックリン化する世界(森千香子)の要約
森千香子氏はジェントリフィケーションを単に経済的な現象としてではなく、社会的、文化的、そして人種的な側面を含む複合的な過程として捉えています。著者は、住民たちの日常生活や経験に焦点を当てることで、統計データだけでは見えてこない、ジェントリフィケーションの人間的な側面を浮き彫りにしています。
ブルックリンで進むジェントリフィケーションとは何か?
ジェントリフィケーションは低所得層が居住する都市中心部の街区が再投資とリニューアルによって変化し、中間階級と上位中間階級の住民が流入するプロセスをさす。(スミス)
ニューヨーク市の一区画であるブルックリンは、近年目覚ましい変貌を遂げています。かつては庶民の街として知られていたこの地域が、今や「全米住みたい都市ランキング」に名を連ね、「ジェントリフィケーションの震源地」とまで呼ばれるようになりました。私も毎回ニューヨークに行くたびにブルックリンを訪れますが、その変化のスピードは東京以上かもしれません。
同志社大学社会学部教授の森千香子氏は、この劇的な都市変容を多角的に分析し、現代社会が直面する諸問題について深い洞察を提供しています。ブルックリンで進む都市再生やカルチャーの変遷が、世界の都市に及び、新たな社会課題になっていると言うのです。
ブルックリンの変容は、都市におけるダイバーシティとインクルージョンの重要性を如実に物語っています。200以上の言語が飛び交い、住民の約40%が外国生まれという多様性は、イノベーションと文化の発信地としてのブルックリンの地位を確立したことは間違いありません。この多様性こそが、創造性とアイデアの源泉となり、ビジネスにおける競争優位性を生み出す鍵となっています。
一方で、本書はジェントリフィケーションの複雑な影響を多角的に分析しています。著者自身のブルックリン在住経験を活かし、学術的な研究や論文に加えて、地域住民の生の声や現場の実態も織り交ぜて描かれています。このような多面的なアプローチにより、本書は説得力と深みを増しています。
高級コンドミニアムの林立と同時に、低所得の移民コミュニティも同時に存在するブルックリンでは、家賃が高騰し、長年住み慣れた地域から立ち退かざるを得ない古くからの住民と、新たに流入する富裕層との間で「差異の共存」が生じています。
結果、住民間の軋轢が増加し、地域固有の文化が衰退するとともに、既存のコミュニティの崩壊も進んでいます。 さらに、近年ではこの問題が単純な人種間対立を超えて複雑化しています。従来の黒人、白人、ユダヤ系、ラテン系、アジア系といった人種の枠組みに加え、同じ人種内での経済格差も顕在化しています。例えば、黒人コミュニティ内での「持てる者」と「持たざる者」の対立が新たな軋轢を生み出しています。
人種、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、年齢などの面で多様な住民たちが空間を共有する中で、多くの課題が浮かび上がっていますが、その解決策を結果だけではなく、プロセスを通じ明らかにしているのが、本書の素晴らしさです。
ジェントリフィケーションが進行する街では、多様な背景を持つ住民たちが日常的に出会い、接触し、時に分離しながらも共存の形を模索しています。このような都市変容に伴う共存のあり方を、ブルックリンの事例から考察することで、グローバルに広がる「ブルックリン化」する都市の課題と解決策を見出すことができます。
さまざまな世代の年齢も居住歴も社会職業カテゴリーもライフスタイルも異なる住民の交流や、予期せぬ出会いの積み重ねが、街の新たな姿を形作っていきます。
多くの人が、自分の生活環境を少しでも良くしたいと願っています。それは当然の欲求といえるでしょう。しかし、ジェントリフィケーションが進行している地区では、この願望が皮肉にも将来の立ち退きリスクを高めてしまう可能性があります。
例えば、古い集合住宅に住む住民が協力して建物の外観を美しく塗り替えたり、近隣の公園の清掃活動を始めたりすることで、街並みが改善されます。これは一見、望ましい変化に思えます。しかし、街の魅力が高まることで、より裕福な層の関心を集め、不動産価値が上昇していきます。その結果、家主が建物の取り壊しや高級マンションへの建て替えを決断し、現在の住民に立ち退きを求める可能性が高まります。
このようなジレンマの中で、ジェントリフィケーション進行地区の住民は、いつ始まるかわからないカウントダウンと隣り合わせの生活を送っています。自分の周りの住環境が改善すればするほど、皮肉にも自分たちが住めなくなるリスクが高まるのです。
また、ジェントリフィケーションが進むと、街の壁にも変化が現れます。以前はアーティストたちが自由に絵を描いていた壁が、今では企業の広告で埋め尽くされるようになってきました。 特に気をつけたいのは、アートのように見える広告です。一見すると街を明るくしているように見えますが、実はアーティストたちの表現の場所を奪っているのです。街中にあった「キャンバス」が、どんどん減っていっていきます。
街の景色は、そこに住む人々の生活と深く結びついています。新たな住人が古い文化を尊重せず、古い住人との軋轢を深めています。変化は避けられませんが、地域文化の破壊が、全ての街を同質化させてしまうリスクを高めているのです。
都市とは誰のものか?ジェントリフィケーションの研究から見えるもの
ブルックリンで育つことはできた。でもブルックリンで歳をとることは(中略)このままだと、まず無理だ。僕が知っていたブルックリンはブロックごとに、少しずつ立ち退かされている(中略)地元の住民は家賃を払えなくなって立ち退かされたり、買い上げられている。(ブルックリンのジャマイカ系の住民)
ジェントリフィケーションの波が都市を変容させる中、多くの人々が自らのコミュニティから押し出されていく現実に直面しています。ブルックリンのジャマイカ系住民の言葉は、この現象が今後多くの都市で当たり前になる可能性を示唆しています。
セントラル・ブルックリンの事例は、単純な数字だけでは捉えきれない複雑な状況を浮き彫りにしています。行政による退去執行の数自体は他地域と比べて際立って多くはないものの、立ち退きの圧力は確実に増加しています。
「立ち退きの可視化」は、単なる住居の問題を超えて、社会正義と公平性の問題として認識されるようになってきています。 ジェントリフィケーションが進行する地区に住む人々の日常は、独特の緊張感に満ちています。再開発や住環境の改善が、皮肉にも立ち退きのリスクを高める要因になりうるという逆説的な状況に置かれているのです。
ジェントリフィケーションは、都市開発において避けて通れない現象として、多くの研究者や政策立案者の注目を集めています。一見すると、荒廃した地域に新たな活力をもたらし、経済的発展を促進するように見えるこの過程ですが、その影響は単純な「改善」や「進歩」として片付けられるものではありません。
サラ・シュルマンが指摘するように、ジェントリフィケーションは「物事は良くなっている」という幻想を作り出します。しかし、この「進歩」の陰で、多くの人々の経験や声が無視されていきます。特権的な層の認識が現実として提示され、それ以外の経験が周縁化されていくのです。
ジェントリフィケーションがもたらす影響は、単に物理的な移動を強いるだけではありません。長年にわたって培われてきたコミュニティの絆、相互扶助のネットワークを引き裂くのです。これらの社会関係は、特に黒人やラテン系のコミュニティにとって、事実上のセーフティネットとして機能してきました。経済的困難に直面しても、このネットワークのおかげでホームレス化を免れてきた人々も多かったのですが、これが機能しなくなっています。
しかし、ジェントリフィケーションはこうした「居住をめぐる相互扶助」のシステムを解体し、不動産を商品化して市場に組み込んでいきます。これにより、長年その地域で生活してきた住民たちが「やりくり」しながら生活を維持することが、決定的に困難になっていきます。
この現象は、単なる住宅問題を超えて、社会の公平性や正義に関わる重大な課題を提起しています。経済的な「発展」や「改善」の名の下に、長年培われてきたコミュニティの価値や多様性が失われていく危険性を示唆しています。今後、多くの都市がこの分断という問題に直面することになるでしょう。
居住を通した日常的な実践は「場」を形成し、空間の機能を定め、社会的影響を与える。こうして空間はある者には住みにくく、別の者には魅力的になっていく。(森千香子)
一方で、反ジェントリフィケーションの動きが起こり、分断を乗り越え、新たなつながりや交流の機会を生み出しています。コミュニティオーガナイザーたちは、この状況に積極的に対応しようと努めています。彼らは学校、図書館、コミュニティセンターなどの公共空間を「ホーム」として活用し、多様な背景を持つ住民同士の学びと交流を地道に促進しています。また、インターネットを通じた情報交換の場も、異なる社会経済的背景を持つ住民間の対話を可能にしています。
ブルックリンの 文化、人種、民族、言語、社会、経済の多様性を褒め称える場所をつくることで、相互理解が進むのです。古くからの価値観と新しい文化が交錯し、時に軋轢を生みながらも、独自の調和を見出していく過程こそが、都市の再生のヒントになります。
この現象はブルックリンに限らず、世界中の都市で見られる普遍的な課題となっています。急速な都市化と経済変動がもたらす摩擦を、いかに創造的な共存へと昇華させるか。それは、グローバル化する世界における都市のあり方を問い直す重要な視点となります。
2010年代以降反ジェントリフィケーションに関するさまざまな実践がブルックリンの地区コミュニティで積み重ねられてきた。それは徐々に横のつながりをもつようになり、そのつながりが特定のキャンペーンを媒介にして区から市、そして州にも広がり、議会政治にも影響をおよぼした。こうして「宿命」と思われていた流れに(限定的ではあるものの)変化を引き起こした。家賃規制法はその大きな成果の1つだった。
解決への道筋は、この変容の過程そのものに内在しています。多様性を尊重しつつ、共通の目標を見出し、対話を重ねていくこと。そして、変化を恐れるのではなく、その中に新たな可能性を見出す姿勢が求められます。
本書は単にジェントリフィケーションの問題点を指摘するだけでなく、異なるバックグラウンドを持つ住民たちが、いかにして共存の道を模索しているかについても深い洞察を提供しています。これは、今後の都市開発や都市政策を考える上で、極めて重要な視点となるでしょう。
ジェントリフィケーションの進行を単に受け入れるのではなく、その過程をいかにコントロールし、既存のコミュニティと新しい住民の共生を図るかが重要な課題になりそうです。また、この問題は単に一地域の問題ではなく、グローバルな都市化の文脈の中で捉える必要があります。世界中の多くの都市が同様の課題に直面している中、各地の経験や取り組みを共有し、学び合うことが重要となります。
森氏の研究は、この複雑な問題に対する理解を深め、より公正で持続可能な都市の未来を考える上で、重要な一歩を示しています。ブルックリンのジェントリフィケーションの課題は、東京や京都の課題でもあることを忘れないようにしたいものです。
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