経験バイアス ときに経験は意思決定の敵となる
エムレ・ソイヤー, ロビン・M・ホガース
白揚社
経験バイアス(エムレ・ソイヤー, ロビン・M・ホガース)の要約
私たちは過去の経験によって、間違いを犯すことがあります。経験には常にフィルターがかかっており、情報の欠落や混入が起こりうることを認識する必要があります。経験を絶対的な教訓としてではなく、検証すべき仮説として捉え、見落としや無視すべき要素を問い続けることで、より確かな学びと意思決定が可能になります。
経験に騙されなくなるための2つの重要な視点
残念ながら、うかつにも経験に頼りすぎると、悲惨な結果を招くおそれがある。脅しているわけではなく、文字どおり、流血の事態を招いてしまうこともあるのだ。(エムレ・ソイヤー, ロビン・M・ホガース)
経験は人類の最も古い教師であり、私たちの意思決定の礎となってきています。日々の生活から重要な判断まで、私たちは絶えず過去の経験を参照し、その教訓を現在と未来に活かそうとしています。
しかし、この普遍的とも言える「経験への信頼」が、時として私たちの成長や進歩の妨げとなることを、行動科学者のエムレ・ソイヤーとロビン・ホガースは指摘しています。 歴史は経験への過度な依存がもたらす危険性を数多く示しています。
アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの最期は、その象徴的な例と言えるでしょう。当時の医師たちは、長年の経験から瀉血療法を万能の治療法と信じていました。その結果、既に衰弱していたワシントンから更に血が抜かれ、状態は一層悪化することとなりました。この悲劇的な出来事は、経験則が時として致命的な誤りをもたらすことを示しています。
現代社会において、私たちは経験を個人や組織の価値を測る重要な指標としています。ベテラン医師の診断、経験豊富な経営者の判断、そして長年の政治キャリアを持つ指導者の決定。これらはすべて、経験という基盤の上に築かれた信頼性を持つとされています。
しかし、この「経験」という概念は、必ずしも正確な判断や適切な意思決定を保証するものではありません。 経験がもたらす最も深刻な問題の一つは、思考の固定化です。過去の成功体験は、特定の方法論や考え方に執着させ、新しいアプローチや革新的な解決策を見出す妨げとなることがあります。
経験に基づく教えが、判断を誤らせ、時として致命的な結果をもたらしうるという事実は、私たち人間が物事を学んだり考えたりする上で由々しき問題である。
私たちの人生において、純粋な学びの機会は意外にも限られています。日々の経験は、まるで曇りガラスを通して見る景色のように、様々なフィルターによって歪められ、時には重要な部分が完全に見えなくなってしまうことがあります。
この状況は、古代ギリシャの哲学者プラトンが語った「洞窟の比喩」に驚くほど似ています。 プラトンが描いた洞窟の中の囚人たちは、壁に映る影だけを見て現実を理解しようとしていました。彼らにとって、その影こそが世界の全てでした。現代を生きる私たちも、同じような状況に置かれているのかもしれません。
人生のほとんどの場面で、私たちは学習になじまない環境に置かれる。学習になじまない環境とは、自分の経験が絶えず、さまざまなフィルターで除去されたり、歪められたりする環境のことだ。
経験を重ねることには、思いがけない落とし穴が潜んでいます。私たちは多くの経験を積み重ねることで、自然と賢明さや判断力が増していくと考えがちです。しかし、現実はそれほど単純ではありません。むしろ、経験を積めば積むほど、誤った信念が知らず知らずのうちに強化されていき、その一方で、自分が以前よりも賢くなっているという幻想を抱いてしまう危険性があります。
この状況は、特に専門家や熟練者に多く見られます。長年の経験によって培われた直感や判断は、確かに価値あるものですが、同時にそれは思考の硬直化や偏りをもたらす可能性も秘めています。
例えば、ベテラン教師が新しい教育手法を受け入れることに抵抗を感じたり、経験豊富な医師が最新の治療法の採用を躊躇したりする場合があります。 このような経験の罠を避けるためには、自分の経験から得た教訓に対して、常に健全な疑いの目を向けることが不可欠です。
特に、複雑な状況の中で正確な判断を下す必要がある場合、この姿勢は極めて重要になってきます。私たちは、自分の経験則が絶対的な真理ではなく、時には誤りを含む可能性があることを認識し、必要に応じてそれを修正していく勇気を持つ必要があります。
では、具体的にどのように経験を見直していけばよいのでしょうか。特に学習になじまない環境に置かれているとき、私たちは2つの重要な視点から自分の経験を吟味する必要があると著者たちは指摘します。
1つ目の視点は、見落としている重要な情報がないかを確認することです。目の前で起きている事象を完全に理解するためには、自分の経験から抜け落ちている重要な要素がないかどうかを、慎重に検討する必要があります。例えば、新しいプロジェクトに取り組む際、過去の成功体験だけに頼るのではなく、現在の状況に特有の要因や、これまでとは異なる環境の変化にも目を向ける必要があります。
2つ目の視点は、逆に、不必要な情報をフィルタリングすることです。私たちの経験には、往々にして本質的でない些末な情報が数多く含まれています。これらの情報に引きずられることで、重要な判断や決定が歪められてしまう可能性があります。
そのため、現在直面している状況において本当に重要な情報は何か、逆に無視すべき情報は何かを、慎重に見極める必要があります。 このような視点を持つことは、単に経験を否定することではありません。
むしろ、経験をより効果的に活用するための手段と考えるべきです。私たちの経験は、確かに貴重な学びの源泉です。しかし、それを無批判に受け入れるのではなく、常に批判的に検討し、必要に応じて修正を加えていく姿勢が重要です。
また、この過程では、他者の視点や意見を積極的に取り入れることも有効です。自分とは異なる経験を持つ人々との対話を通じて、自分の経験の限界や偏りに気づくことができます。時には、自分の経験と矛盾する情報であっても、それを排除せずに検討する勇気が必要です。
結局のところ、真の学びは、経験を積み重ねることだけでは得られません。むしろ、その経験を批判的に検討し、常に新しい視点や可能性に対して開かれた姿勢を保つことで、はじめて実現されるものなのです。自分の経験に対して適度な距離を置き、その限界を認識しつつ、より深い理解を求めて探究を続けること。それこそが、複雑な現代社会を生き抜くために必要な知恵なのかもしれません。
適切な意思決定に必要なこと
経験に基づく教訓の真偽を見極めようとする態度は、
私たちが頼りにする専門家やリーダーを牽制する効果もあるだろう 。
経験に基づく判断の妥当性を見極める姿勢は、私たちの社会に重要な変革をもたらす可能性を秘めています。特に、専門家やリーダーの判断に対して健全な牽制効果を持つことが期待されます。
経験が本当に信頼できる専門知識をもたらす場合と、そうでない場合を峻別できれば、より優れた経営者や専門家、アドバイザーを見分けることが可能となり、結果として私たちの長期的な幸福度の向上にもつながっていくでしょう。
しかし、この問題を考える上で見過ごせないのが、私たちの思考に深く根付いているステレオタイプの存在です。これらの固定観念の多くは、私たちを取り巻く文化環境から自然と染み込んできたものです。
家庭での会話、地域社会での交流、学校教育、そしてメディアを通じて接する様々な物語や信念、暗黙の前提や態度が、知らず知らずのうちに私たちの中に定着していきます。 さらに注目すべきは、個人的な経験もまた、新たなステレオタイプを生み出す源となっているという事実です。
私たちは往々にして、特定のカテゴリーに属する人々や状況に、わずか一度か数回接しただけで、性急な一般化を行ってしまいます。その結果、単純化された物語が作り上げられ、それが現実を見る際のレンズとなってしまうのです。
この傾向は、イノベーションの分野において深刻な問題を引き起こします。過去と未来の隔たりが大きければ大きいほど、過去の経験は将来を予測する上で、その有効性を失っていきます。
イノベーションそのものが過去と未来の違いを拡大させる性質を持っているため、アイデアが画期的であればあるほど、その潜在的な影響力を過去の経験から正確に判断することは困難になります。 この状況がもたらす最も顕著な弊害の一つが、革新的なプロジェクトの却下です。先見性に欠けるゲートキーパーたちによって、真に画期的なアイデアが理解されず、拒絶されてしまうケースが後を絶ちません。
その代表的な例として、ハリー・ポッターやグーグル、パーソナルコンピュータなどが挙げられます。 最近では、エアビーアンドビーの創業者が、かつての投資家たちが書いた断り状を公表し、話題を呼びました。世界最大の民泊プラットフォームとなった同社の構想に対し、当時アプローチした5人の投資家は、そのアイデアに可能性を見出すことができませんでした。そのうちの2人に至っては、返信すら行わなかったと言います。
実は、このような判断ミスは決して珍しいものではありません。多くのベテラン投資家が、類似の経験を持っているはずです。しかし、そうした過ちを公に認めることを躊躇う傾向があります。これは、経験への過度の信頼が、いかに革新的なアイデアの評価を歪めてしまう可能性があるかを如実に示しています。
このような状況を改善していくためには、私たちは経験というレンズを通して物事を見る際に、より慎重になる必要があります。特に、急速に変化する現代社会においては、過去の経験が必ずしも未来を正確に予測する指標とはならないことを理解しなければなりません。
むしろ重要なのは、経験から得られた知見を絶対的なものとせず、常に新しい可能性に対して開かれた姿勢を保つことです。それは、専門家やリーダーの判断に対しても同様です。彼らの経験や知見を尊重しつつも、それが現在の状況や未来の可能性に対して、本当に適切な判断基準となっているかどうかを、批判的に検討する必要があります。
このような姿勢を持つことで、私たちは革新的なアイデアをより適切に評価し、社会の進歩に貢献する可能性を高めることができるでしょう。経験は確かに貴重な資産ですが、それが時として革新の障壁となり得ることを認識し、より柔軟で開かれた思考を心がけることが、現代社会を生きる私たちに求められているのではないでしょうか。
健全な猜疑心を養えば、経験を当てにしてよい場合と、そうでない場合とをきちんと区別できるようになる。経験から得た教訓を盲信せずに、検証する必要のある仮説だと見なせるようになれば、もっと適切な意思決定ができるようになる。そうすれば、もっと効果的に学んだり、学んだことを手放したり、新たなことを学び直したりする力が身についていく。
健全な猜疑心を持って経験と向き合うことは、より豊かな学びと成長をもたらす鍵となります。経験を単なる確定した事実としてではなく、検証可能な仮説として扱うことで、私たちは状況に応じて柔軟に学び、適応し、成長していく力を身につけることができます。それは、個人としても、組織としても、より効果的な意思決定と持続的な発展につながっていくのです。
すべての経験には何らかのフィルターがかかっているという認識が重要です。時として重要な情報が欠落していたり、逆に無関係な情報が混入していたりすることがあります。例えば、失敗例よりも成功例が目立ちやすく、限られた個人的経験から安易な一般化をしてしまいがちです。
特にリスクの高い状況では、「見落としている要素は何か」「無視すべき要素は何か」を常に問い続けることが大切です。このような姿勢を持つことで、経験からの教訓を絶対的なものとせず、検証が必要な仮説として捉えられるようになります。
このような批判的な視点を持つことは直感に反するため実践は容易ではありませんが、外部からの客観的な視点を取り入れることで、より良い意思決定につながっていくと考えられます。
環境が学習に適していないほど、私たちが経験から得る教訓の信頼性は低下していきます。これは単に教訓の質が下がるだけでなく、その経験に基づいて形成される確信そのものが、実は脆弱な土台の上に築かれているということを意味しています。
誤った確信に囚われることなく、状況を客観的に見つめることができれば、環境の変化により素早く、より効果的に対応することが可能になります。 環境への適応という観点から見ると、健全な懐疑心を持つことは、むしろ積極的な意味を持っています。それは単に誤りを避けるためだけでなく、新しい可能性を見出し、より良い選択肢を発見するための土台となるからです。
結果として、私たちは環境の中で生じる様々な変化や課題に対して、より柔軟に、より創造的に対応できるようになります。これは個人としての成長だけでなく、組織全体の適応能力の向上にもつながっていくのです。
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