知性の罠 なぜインテリが愚行を犯すのか
デビッド・ロブソン
日経BP 日本経済新聞出版

知性の罠 なぜインテリが愚行を犯すのか (デビッド・ロブソン)の要約
私たちは長く、知能や専門性が高い人ほど賢明な判断を下すと信じてきました。しかし、数々の実証研究は、高いIQや専門性がかえって誤判断への固執や集団の機能不全を招くことを示しています。知性は量ではなく扱い方が重要であり、知的謙虚さや柔軟な思考、好奇心を欠くと強力な罠になり得ます。
インテリが愚行を犯す理由
知能も教育水準も高い人は、自らの過ちから学ばず、他人のアドバイスを受け入れない傾向がある。しかも失敗を犯したときには、自らの判断を正当化するための小難しい主張を考えるのが得手であるため、ますます自らの見解に固執するようになる。さらにまずいことに、こうした人々は「認知の死角」が大きく、自らの論理の矛盾点に気づかないことが多い。 (デビッド・ロブソン)
私たちは長いあいだ、「賢い人が集まれば、より良い判断がなされる」という前提のもとで社会を設計してきました。学歴、偏差値、資格、専門知識、肩書き。そうした指標は、個人の能力を測る物差しであると同時に、その人の判断をどれほど信頼してよいかを決める判断材料として用いられてきました。
そして、その中心に位置づけられてきたのが、IQという数値です。 IQは、知性を端的に示す指標として、長年にわたり高い権威を与えられてきました。教育制度、採用試験、昇進評価など、さまざまな場面で、直接的・間接的にこの考え方が前提とされています。
合理的に考えられる人ほど、合理的な判断を下すはずだ。知能が高い人ほど、失敗を避けられるはずだ。この連想は、ほとんど疑われることなく共有されてきたと言ってよいでしょう。
しかし現実を冷静に観察すると、この前提が必ずしも成り立っていない場面に、数多く出会います。高度な教育を受け、専門知識を身につけ、論理的思考力にも恵まれているはずの人々が、なぜか重要な局面で誤った判断を下し、その誤りを修正できず、むしろ正当化してしまうのです。
企業経営、政治、金融、医療、教育といった分野を見渡せば、その例は決して例外的なものではありません。 「なぜ高い知能や優れた知識を持つ人ほど、愚かな決断を下すのか」。この問いは、誰かを非難するためのものではなく、私たち自身が暗黙のうちに信じてきた「賢さ」の定義そのものを問い直すものです。
そして、この問いに対して感情論ではなく、実証研究をもとに答えようとしたのが、科学ジャーナリストのデビッド・ロブソンの知性の罠 なぜインテリが愚行を犯すのかです。(デビッド・ロブソンの関連記事)
IQテストに基づく標準化された知能検査は、世界各地で実施されています。インド、韓国、香港、シンガポール、台湾といった地域では、GREのような大学院進学試験に備えるための教育産業が成立し、抽象的思考力を鍛えることが、将来の成功への近道だと考えられています。
IQテストに懐疑的な立場を取る人であっても、それが測定する抽象的思考力を、知性の中核的要素と見なす見解はいまなお主流です。 抽象的思考は、学業で成功するために不可欠であり、仕事や家庭、資産管理、政治といった多様な領域における判断力と結びつけて語られてきました。
知能が高い人ほど、感情に流されず、情報を冷静に吟味し、合理的な意思決定ができるはずだ。この考え方は、教育や評価の仕組みを通じて、半ば常識として内面化されています。
一方で、IQテストでは測定されない判断力や賢明さについて語る際には、「生きる力」や「人間力」といった曖昧な言葉が用いられがちです。そしてそれらは、訓練によって体系的に伸ばせるものではなく、自然に身につく性質だと捉えられてきました。
その結果、教育の現場では、論理的思考や抽象的思考に比べて、判断の質や思考態度を育てる試みが後回しにされてきた側面があります。 さらに、学力テストの多くは時間制限付きで実施されます。この構造の中で、私たちは「速く考えること」そのものを知性の証だと学習してきました。
慎重さや熟考は優柔不断と結びつけられ、思考や行動が遅いことは否定的に評価される。「とろい」という言葉が、能力の低さを指す表現として使われてきた文化も、無関係ではないでしょう。 しかし、こうした前提の多くは再検討が必要です。
実証研究が示すのは、IQが高い人の業績が、必ずしも安定して高いわけではないという事実です。IQが低い人の業績が高い人を上回るケースは珍しくなく、また知能が高くても、その能力を十分に活かしきれない人も多く存在します。
これは、創造性や専門家としての判断力、状況適応力といった資質が、IQという一つの数値では説明できないことを示しています。 知能が高い人であれば、自分の失敗や思考の偏りにも気づきやすいのではないか、と考えたくなるかもしれません。
しかし実際には、多くの人が「自分は他者よりも認知バイアスの影響を受けにくい」と考えています。この傾向は、IQの高低にかかわらず広く見られ、知能の高さが自己認識の正確さを保証しないことを示しています。 行動面でも、高い知能が賢明な選択を導くとは限りません。
IQが比較的高い人ほど、アルコール消費量が多く、喫煙や違法ドラッグの使用率が高い傾向があることが報告されています。短期的な快楽と長期的な不利益を冷静に比較できる能力が、知能の高さによって自動的に備わるわけではない、という点は重要です。
同様の傾向は、金銭管理の領域でも確認されています。IQが高い人ほど、クレジットカードの過剰利用やローン返済の遅延といったトラブルに直面しやすいというデータがあります。知能が高いことは、複雑な金融商品を理解する助けにはなりますが、衝動や過信を抑制する力とは必ずしも一致しません。
知性が高いがゆえに、かえって誤った判断に固執してしまう例として、しばしば言及されるのが スティーブ・ジョブズ のケースです。彼の周囲の人々が語る「現実歪曲フィールド」とは、強烈な意志と卓越した知性、そして説得力のある語り口が組み合わさることで、周囲の反対意見や不都合な事実が退けられてしまう状況を指します。
この特性は、テクノロジーの分野においては既存の制約を突破し、革新的な成果を生み出す原動力として機能しました。しかし同時に、それは私生活においては別の結果をもたらしました。
膵臓癌と診断された際、ジョブズは医師の助言よりも自身の信念を優先し、代替的な治療法に長く固執しました。その判断が結果として治療の選択肢を狭め、回復の可能性を低下させたと指摘されています。 重要なのは、これは無知や判断力の欠如によるものではなかったという点です。
むしろ、自分の考えを論理的に構築し、反対意見を退ける能力に極めて長けていたからこそ、その知性が「修正」ではなく「正当化」の方向に使われてしまった。この事例は、高い知能が常に賢明な意思決定を保証するわけではないこと、そして知性そのものが、ときに強力な罠になり得ることを示しています。
こうした事例を総合すると、知能の高い人々が非合理な行動に走る背景には、いくつかの要因が重なっていることが見えてきます。実生活に必要な創造的・実務的知能が十分に機能していない場合、合理性障害によって直感的判断に引きずられる場合、そして動機づけられた推論によって、自分の立場と矛盾する証拠を否定するために知性が使われてしまう場合です。
知性の罠が組織においても起こる理由
専門家の少ない銀行ほど、経営成績が良くなったのだ。「専門性の高い」取締役は、自らの下したリスクの高い経営判断に固執し、それを撤回して戦略を修正しようとはしなかった。一方、専門知識専門家の少ない銀行ほど、経営成績が良くなったのだ。
知性の罠は、個人の思考の中だけで完結するものではありません。むしろ、組織や集団という文脈に置かれたとき、その影響はよりはっきりとしたかたちで現れます。直感的には、優秀な人材や専門性の高い人材を多く集めるほど、組織は合理的に機能し、リスクにも強くなるように思えます。
しかし実証研究が示しているのは、必ずしもそうではないという現実です。 象徴的な例が、2008年の金融危機をめぐる銀行経営の分析です。このとき、取締役会に金融分野の専門家が多く在籍していた銀行ほど、危機後の経営成績が悪化していたことが確認されています。
専門性の高い取締役たちは、自らが下したリスクの高い経営判断に強くコミットし、その判断が誤っていた可能性を示す兆候が現れても、戦略を撤回したり、修正したりすることに消極的でした。 一方で、専門家の比率が低かった銀行、つまり金融のプロフェッショナルだけで固められていなかった組織のほうが、結果として柔軟な対応を取り、経営成績を回復させていました。
著者は、この教訓は金融業界に限らず、あらゆる業界に当てはまると述べています。状況が急激に悪化したとき、必ずしも最も経験豊富な人物が最適な出口を知っているとは限らない。むしろ、チームの中で最も経験の乏しいメンバーが、固定観念に縛られない視点を持っている場合すらあるのです。
ここで重要なのは、専門性そのものが問題なのではない、という点です。問題となるのは、専門性が高いがゆえに、自分の判断を疑いにくくなり、その判断を修正する心理的コストを過大に感じてしまうことです。専門家は、自らの知識や経験によって組織に価値を提供してきたからこそ、その判断が誤りであったと認めることが、自己否定に近い感覚を伴います。その結果、合理的な撤退よりも、非合理な固執が選ばれてしまうのです。
こうした直感的な疑問、すなわち「特別に優秀な人同士は、地位がもたらす自信過剰や視野の狭さによって、かえって協力できなくなるのではないか」という問いに、実証的な答えを示したのが、コーネル大学のアンガス・ヒルドレスです。彼がこの研究を始めたきっかけは、グローバルなコンサルティング企業で働き、経営幹部の会合を数多く観察した経験でした。
個人としては極めて優秀で、仕事ができるからこそ幹部ポストに上り詰めた人たちばかりであるにもかかわらず、集団としての彼らは驚くほど意思決定ができず、会議は停滞し、スケジュールは常に遅れていた。ヒルドレス自身も、とびきり優秀な人々が集まれば、当然すばらしい成果が出るはずだと思い込んでいたと言います。
しかし現実は、その期待を裏切るものでした。 この違和感を検証するため、ヒルドレスは実験を行いました。あるグローバルな医療企業の経営幹部を集め、複数のグループに分かれてもらい、架空の候補者の中から最高財務責任者を選ぶ課題を与えたのです。
グループ構成だけを変え、一方には部下を多数抱える最高幹部だけを集め、もう一方にはより地位の低い幹部だけを集めました。既存の人間関係や過去の競争が影響しないよう、いずれのグループも、それまで一緒に働いたことのない者同士で構成されました。
結果は明確でした。最高幹部だけのグループは64%が結論に到達できなかったのに対し、地位の低い幹部だけのグループで合意に至らなかった割合は15%に過ぎませんでした。実務能力には、実に4倍の差が生じていたのです。 最大の問題は、地位をめぐる無意識の競争でした。
最高幹部たちは目の前の課題よりも、誰が決定権を握るのか、誰が勝者になるのかに意識を奪われていました。その結果、情報は共有されず、意見を融合しようとする姿勢も弱まり、妥協点を見いだすことが極めて困難になっていたのです。 この現象は、特定の性格を持つ人に限ったものではありません。
学生を被験者とした別の実験では、わずかな権力意識を与えられただけで、人は幹部たちと同じように利己的に振る舞うようになることが示されました。リーダーという役割を一度与えられただけで、協力は減り、情報共有は滞り、合意形成は難しくなります。
権力は人格を変えるというより、認知の焦点を歪める作用を持っていると考えたほうが適切でしょう。 さらに深刻なのは、こうした権力闘争が心理的な問題にとどまらず、脳の働きそのものにも影響を及ぼす点です。
バージニア工科大学で行われた研究では、被験者を小集団に分け、互いの進捗状況を比較させる環境をつくったところ、一部の被験者は事前テストよりも成績を落としました。
IQの水準はほぼ同じであったにもかかわらず、競争に敏感な被験者ほど、認知能力が低下したのです。 fMRIによる脳画像解析でも、その変化は確認されました。感情処理に関わる扁桃体の活動が活発になる一方で、問題解決を司る前頭前皮質の活動は低下していました。
研究チームは、認知能力は個人の内部に完結したものではなく、社会的環境と切り離せないものであると結論づけています。知力をどれだけ発揮できるかは、常に周囲の人々をどう認識しているかによって左右されるのです。 同様の構造は、金融業界のスターアナリストを対象とした調査でも確認されています。
ハーバード・ビジネススクールのボリス・グロイスバーグによる分析では、金融業界でトップアナリストを一定数までは増やすことで成果は向上するものの、ある閾値を超えると、パフォーマンスはむしろ低下することが示されました。専門分野が重なり、直接的な競争関係が生まれた瞬間、協力は崩れ、エゴの衝突が組織を弱体化させるのです。
こうした結果を総合すると、集団に優秀だが傲慢なメンバーが存在すると、集団的知能と、繊細なメンバー個人の知能の双方が損なわれることがわかります。この二重の影響によって、組織全体の生産性は静かに、しかし確実に低下していきます。
研究に参加したリード・モンタギューが、「会議中は脳が死んだような気分になるという冗談があるが、実際にそれに近いことが起きている」と語ったのは、決して誇張ではありません。
では、この知性の罠を回避することは可能なのでしょうか。本書が示すのは、知的謙虚さ、柔軟なマインドセット、積極的なオープンマインド思考、感情の識別とコントロール、認知反射といった能力を意識的に鍛えることで、知能という強力な思考エンジンを適切に制御できるという見通しです。
ベンジャミン・フランクリンの精神的代数や自己距離化、マインドフルネス、内省的思考といった技法は、直感に即座に飛びつくのではなく、立ち止まって別の視点から世界を眺める助けとなります。
ここに共通しているのは、インテリジェンス・トラップが生じる背景には、想像力の欠如があるという認識です。最初に頭に浮かんだ考えや感情をそのまま採用せず、それ以外の可能性を想像できるかどうか。
好奇心としなやかなマインドセットは、一般的知能の高低にかかわらず、私たちの思考を独善的で一面的な方向へと傾けるのを防いでくれます。
知性は量ではなく、扱い方によって価値が決まります。才能が集まるほど脆くなるという逆説を理解したとき、私たちはようやく、賢さと賢明さを切り分けて考える地点に立つことができるのです。
















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