何がダサいを決めるのか (平芳裕子)の書評

書籍:何がダサいを決めるのか
著者:平芳裕子
出版社:ポプラ社
ASIN ‏ : ‎ B0GX32FKQJ

【書評】『何がダサいを決めるのか』なぜ今読むべきか?AI時代に「ダサい」の呪縛から自由になり、意思決定の質を飛躍させる仕事術

2024年、SNS上で「パーカーおじさん論争」が巻き起こりました。中年男性がパーカーを着ることは「ダサい」のか、そもそもなぜ人は他人の服装にそこまで口を出したがるのか。この論争は多くの40代・50代のビジネスパーソンにとって、単なるファッションの話題を超えた「自分ごと」として深く響いたのではないでしょうか。

私自身、かつて広告会社に勤務していた時代は、毎日スーツにネクタイを着用してクライアントに会うのが「当たり前」の常識でありマナーでした。しかし現在、独立してコンサルタントとなり、スタートアップやベンチャー企業のクライアントが多くなるにつれて、ミーティングでジャケットを羽織ることはほとんどなくなりました。

仕事環境や付き合う相手、所属するコミュニティが変わることで、私自身のファッションも自然とカジュアルなものへと変化していったのです。

しかし、この「服装の変化」は、果たして完全に「自分の自由な意思」による選択だったのでしょうか。それとも、広告業界には広告業界の、ベンチャー界隈にはベンチャー界隈の「こう見られるべきだ」「周囲になじむべきだ」という無意識の社会規範(同調圧力)が存在し、私はただそれに従っていた(同一化していた)だけなのではないか。本書を読んで、改めて自分の日々の行動と意思決定の背景について深く考えさせられました。

神戸大学大学院教授で、ファッション文化論を専門とする平芳裕子氏の『何がダサいを決めるのか』は、私たちが普段なんとなく感じている「ダサい」という感覚の正体に迫る一冊です。

著者は『東大ファッション論集中講義』などでも知られる表象文化論の研究者です。本書では、日常の服選びに隠れている歴史的・社会的な意味を、専門的な知見に基づきながらも、わかりやすい言葉で解き明かしています。

今回は本書が示すファッションの社会的構造を読み解きながら、サラス・サラスバシーの「エフェクチュエーション理論」や、AI時代のキャリア戦略とも結びつけて考察します。服装を単なる見た目の問題としてではなく、仕事や人生をより自由にするための思考法として捉え直していきます。

この記事でわかること

  • ファッションに潜む「個と社会の接続」「同一化と差別化」のメカニズム
  • 現代人が陥る「自己表現の病」の弊害と、#KuToo運動に見る慣習の正体
  • 「パーカーおじさん」が批判される背景と、同調圧力を乗りこなす文脈の理解
  • ゼレンスキー大統領の服装戦略に学ぶ、エフェクチュエーション的思考法
  • AI時代において「無難な正解」を疑い、自分の軸で質の高い意思決定を行うアプローチ

30秒でわかる本書のポイント

【結論】: 「ダサい」というジャッジメントの正体は、個人の美的センスの問題ではなく、社会が暗黙のうちに設定した「あなたはこうあるべき(役割期待)」からのズレである。
【原因】: 衣服は「自己表現(差別化)」と「社会への同化(同一化)」という矛盾した役割を同時に担っており、私たちは歴史的に構築された慣習や他者の視線に無意識に縛られているため。
【対策】: 衣服の歴史やスタイルの文脈を教養として深く理解し、「自己表現の病」や「外部の正解」から抜け出すことで、思い込みに騙されない独自の意思決定が可能になる。

本書の要約

本書は、「他人の服装がなぜ気になるのか」という根源的な問いからスタートします。私たちは日々、「似合っていないと思われたくない」「年相応でなければならない」「TPOをわきまえなければ」といった見えないルールに縛られています。著者の平芳裕子氏は、こうした不安の根底にあるものを、個人の美意識の問題としてではなく、社会が構築してきた規範の問題として捉え直します。

人間は衣服を着ることで自分らしさを表現し、他人と区別されますが、同時に服によって社会の中に位置づけられます。社会学者ゲオルク・ジンメルが指摘したように、ファッションとは「社会への同一化」と「個の差別化」の無限反復運動です。しかし現代の私たちは「自己表現こそが善である」という病に囚われ、服が社会と繋がる接続装置であることを忘れがちです。

本書は、パーカーやスーツの歴史、#KuToo運動などの豊富な事例を引き合いに出しながら、私たちが「当たり前」と信じているマナーやふさわしさが、いかに恣意的に作られたものであるかを明らかにします。「ダサい」という言葉に込められた排除のニュアンスをひもとく過程は、極めてスリリングな社会学のフィールドワークです。日常の何気ない服装の選択に潜む社会的な意味を読み解き、読者を「見えない窮屈さ」から解き放ってくれる優れた教養書です。

こんな人におすすめ

  • 組織の無意識の同調圧力や「暗黙のルール」に息苦しさを感じているビジネスパーソン
  • 「自分らしさ(自己表現)」を過剰に求められる現代の風潮に疲弊している人
  • 常識や前例を疑い、新しい価値やイノベーションを生み出したい経営者・起業家
  • AI時代に代替されない、本質的な「文脈を読み解く力」を身につけたい人

本書から得られるメリット

  • 独自のアイデンティティ(自己認識)を確立し、他者の評価に振り回されない意思決定ができるようになる
  • 表面的なマナーの奥にある「文脈」を読み解き、戦略的にルールを書き換える視座が手に入る
  • 「ダサい」の正体を構造で理解することで、人間関係や組織マネジメントにおける心理的ストレスが軽減する
  • 「当たり前」を疑うメタ認知能力が高まり、ビジネスにおける判断の質が飛躍的に向上する

同一化と差別化の無限ループ:ジンメルの社会学とファッションの本質

社会や集団に属する個を、一方で同一化させ、一方で差別化する。そういった同一化と差別化の無限反復的な運動が、ファッションなのです。(平芳裕子)

人間は衣服を着ることで自分らしさを表現します。そして自分らしい服は、他人と自分は異なる存在であることを主張するものともなります。服によって、自分は他人と区別されますが、一方で、自分と他者の関係が築かれることにもなります。

つまり、人は服によって自分を表現しますが、服によって社会のなかに位置づけられもするのです。衣服は、自己と他者、個と社会を区別すると同時に、接続するものでもあります。こういうと、そんなことができるのか?と不思議に感じられるかもしれません。しかし一見、相矛盾する役割を同時に果たすのが衣服もしくはファッションなのです。

一般的にファッションは、「流行の服」を意味しています。私たちの身のまわりにある服は、何らかの形で流行と関わっています。たとえ、定番と呼ばれる服を好んで買うとしても、その定番の服も流行の影響を受けています。20年前のジャケットやパンツを今着てみると、微妙に形やスタイルが今のムードと異なります。

定番とされる商品であっても、その時代の流行との兼ね合いでデザインされているために、やはり流行と関係しているのです。このように、ファッションとは服のことではありますが、ただの服ではなく、ある時代や社会の人々に受け入れられる服のことを指しています。

哲学者であり社会学者であったゲオルク・ジンメルは、このファッションを、現代の社会に特有の現象とみなしました。ジンメルは、都市の発展する社会では個人の心理が重要になると考えました。けれども一方で、その個人が集団に属しているという事実にも注目しました。確かに人間は一人では生きられません。

誰かと何らかの形で関わり合いながら生きています。一人ひとり別々の生活を送り、異なる人生を歩んでいますが、それでもあるコミュニティやある社会の一員として存在しているのです。そのなかで、ファッションはある人の個性を表現すると同時に、その人を他者と区別する役割を担います。

社会や集団の中で、私たちは完全に浮いてしまうことを避けようとします。一方で、誰かとまったく同じではつまらないとも感じます。周囲と調和しながら、同時に自分らしさも表現したい。この「同一化」と「差別化」の繰り返しこそが、ファッションの本質です。

これは、企業のマーケティング戦略や個人のキャリア形成にも通じます。市場の標準や顧客の期待に合わせることで信頼を得る一方、競合にはない独自性を打ち出さなければ、選ばれ続けることはできません。
私たちがクローゼットの前で「周囲から浮きすぎず、でも少し自分らしく見せたい」と考える時間は、単なる服選びではありません。社会の中で自分の立ち位置をどうつくるかを考える、小さな戦略的意思決定なのです。

「自己表現の病」からの脱却と、#KuToo運動に見る慣習の正体

現代のファッションは近代に誕生したファッション産業やファッション文化をモデルとして発展してきています。そのために、ファッションが「自己」を表現するものであり、それが良いことだ、とみなが信じてやまないのです。しかし逆に、私たちは「自己表現の病」のようなものに囚われてしまっています。

服は社会ともつながっているそれゆえに、ファッションが私たちを社会的に位置づけるということもしばしば忘れてしまいがちです。私たちは、服を通して自己を表現していますが、服を通して社会ともつながっています。私たちは、ファッションを通して、社会的に見える存在となるのです。

よって、そのバランス、すなわち個性の表現と社会的な慣習の間のバランスが重要となります。このバランスが崩れると、あるいはバランスを崩そうと試みると、さまざまな軋轢が生まれることになります。

本書の前半では、そのような軋轢のさまざまな例を見ていきます。例えば、#KuToo運動は、女性のパンプス着用に対して疑義を投げかけるものでした。女性は高いヒールの靴をはくべきだと漫然とみなされてきたために、そういった慣習を変えることにさまざまな議論と努力が必要となりました。

しかし服飾史的に見るならば、西洋では男性貴族もハイヒールをはいていました。近代になり男性がハイヒールをはかなくなり、ハイヒールは女性のものとして発展し、その習慣を現代社会も継承したために、ハイヒールは女性のものとみなされているだけです。女性が社会進出を遂げた今、ハイヒールの不都合を主張する意見が女性の側から出てきても不思議はありません。

ビジネスパーソンが陥りがちな「自己表現の病」もこれと同様です。「自分らしさ」や「パーソナルブランディング」を過剰に追い求めるあまり、組織の文脈や顧客の社会的背景といった「社会との接続」を軽視してしまえば、それは単なる独りよがりのスタンドプレーに終わります。

また、組織内で「常識」や「マナー」として疑われずに続いている旧弊(形骸化した会議や非効率な業務プロセス)も、歴史的な文脈を辿れば、ハイヒールのように「かつてある目的のために作られた一時的なルール」がそのまま固定化されたものに過ぎないことが多々あります。

大切なのは、個人の主張をただ押し通すことではなく、社会的な慣習の成り立ちを構造的に理解し、時代に合わせてルールを更新していく知性なのです。

絶対的な「ダサい」は存在しない:「ダサかっこいい」に学ぶ逆転のビジネス戦略

「ダサさ」は絶対的なものではありません。何が「おしゃれ」であるかは時代とともに変わっていき、「ダサい」ものも時代とともに変化します。

私たちは「ダサい」と言われることを恐れています。それは端的に「おしゃれではない」ことを意味し、集団からの排除を予感させるからです。しかし、本書が鋭く指摘するように、その「ダサさ」は決して絶対的なものではありません。

何が「おしゃれ」であるかは時代とともに変わり、「ダサい」ものも時代とともに変化します。ある時は最先端の「おしゃれ」だったものが、時間が経つと「ダサい」ものへと転落していく。

さらに興味深いのは、「おしゃれ」なものばかりが世に溢れてコモディティ化すると、逆に「ダサい」ものがもてはやされる逆転現象が起きることです。かつて「ダサかわいい」や「ダサかっこいい」という言葉が流行したように、「ダサい」ファッションが突如として最先端にもなり得るのです。

つまり、「ダサい」かどうかは絶対的な価値基準ではなく、常に「現在のおしゃれ(主流のトレンド)」との相対的な関係性によって決まる流動的な概念に過ぎません。

ビジネスにおいても全く同じことが言えます。市場が洗練されたスマートなITツール(おしゃれ)で飽和したとき、あえて泥臭いアナログな手法やレトロなデザイン(ダサい)を投入することで、それがカウンターとして「新しくてクール(ダサかっこいい)」と評価されることがあります。

「ダサい=悪」という固定観念を捨て、トレンドとの「相対的な関係性」を俯瞰することができれば、市場の空白を突く見事な逆張り戦略(ブルーオーシャン戦略)を描けるようになるのです。

「パーカーおじさん」の違和感:役割期待と文脈の戦略的逸脱

流行の中身は意味もなく多様だけれども、それが廃れて古くなる、すなわち流行を外れて「ダサくなる」ことは運命づけられているということです。
「パーカーおじさん」や「カジュアルおばさん」という言葉が定期的に話題になります。そこには単なる服装論を超えて、「年齢にふさわしい格好とは何か」「社会人らしさとは何か」という、私たちの無意識の社会規範が表れています。
私たちは、「大人なら落ち着いた服を着るべき」「社会人ならスーツが正しい」「男性はこう、女性はこうあるべき」といった期待を、知らず知らずのうちに他人へ向けています。そして、その期待から外れた人を見ると、「違和感」や「ダサさ」を感じてしまうのです。
しかし、本当に問題なのは服そのものなのでしょうか。むしろ重要なのは、その服装がどのような文脈で着られているかです。 流行は必ず「ダサくなる」 流行には絶対的な正解はありません。 その時代の空気、人々の欲望、社会背景、偶然の重なりによって、さまざまなスタイルが生まれていきます。しかし、どれほど新しかったものも、時間が経てば古くなります。
つまり、流行とは生まれた瞬間から「いつかダサくなる運命」を背負っているのです。 だからこそ、「ダサい」という感覚は固定されたものではありません。社会規範や時代背景によって変化し続ける相対的な評価なのです。 パーカーは「挑戦」の象徴だった 日常着として多くの世代に支持されるパーカーも、文脈によって意味が変わります。
パーカーは身体のラインを強調しやすく、ジーンズと合わせることで年齢が際立ち、「おじさんっぽい」という印象を持たれることがあります。つまり、パーカーそのものが問題なのではなく、「誰が、どこで、どう着るのか」が評価を左右しているのです。
一方で、パーカーは新しいビジネス文化を象徴する服でもありました。 テック企業やスタートアップが急成長した時代、カジュアルな服装は「古い企業文化への挑戦」を意味していました。スーツが象徴する階層的で形式重視の組織に対し、パーカーは、自由な発想、フラットな組織、新しい技術への挑戦を象徴するアイテムだったのです。

スティーブ・ジョブズの黒いタートルネックや、マーク・ザッカーバーグのパーカーも、この文脈で理解できます。彼らの服装は単なる私服ではありませんでした。スーツを前提とする伝統的なビジネス社会に対して、「価値は肩書きや形式ではなく、創造性から生まれる」というメッセージを発していたのです。 つまり、服装そのものが、既存ルールへの静かな挑戦だったのです。

一方で、パーカーのようなカジュアルな服装がビジネスの世界で一般化した現在では、上質なスーツは逆に「伝統的なエリート性」を象徴するアイテムになっています。弁護士や金融機関、大企業の経営層などが高級スーツを身にまとうのは、単なる服装規定ではありません。専門性、信頼性、社会的地位、そして既存秩序の側に属していることを視覚的に示すシンボルとして機能しているのです。

ゼレンスキー大統領に学ぶ「エフェクチュエーション」の服装戦略

服装を通した外交であり、交渉のための戦略でした。

文脈を戦略的に操作し、世界に強いメッセージを発した現代的な例が、ウクライナのゼレンスキー大統領の服装です。 ロシアによるウクライナ侵攻以降、ゼレンスキー大統領は国際舞台で、スーツではなくカーキ色のTシャツやフリースなど、軍事的なカジュアルウェアを着用し続けました。それは単なる服装の好みではありません。

戦時下のリーダーとして前線に立ち、国民とともに戦っていることを示す、きわめて強い視覚的メッセージでした。 しかし、服装の意味は文脈によって変わります。スーツを着ないことが「抵抗の象徴」として機能する場面もあれば、公式交渉の場では「礼を欠く態度」と受け取られることもあります。
実際、ホワイトハウスでの会談では、ゼレンスキー大統領の服装が議論を呼び、交渉は円滑に進みませんでした。その後、ジャケットとシャツを着用することで、彼は戦時下のリーダーとしての一貫性を保ちながら、相手国の政治的文脈にも配慮する姿勢を示しました。
ここで思い出すのが、サラス・サラスバシーが提唱した「エフェクチュエーション」です。エフェクチュエーションは、理想の未来から逆算するのではなく、「自分は何者か」「何を知っているか」「誰を知っているか」という手持ちの手段から未来をつくる考え方です。
ゼレンスキー大統領は、「国家元首なら公式の場ではスーツを着るべきだ」という外部のルールにそのまま従いませんでした。代わりに、「戦時下のリーダーである自分」という強烈なアイデンティティを起点に、装いを通じて世界へメッセージを発信したのです。
一方で、相手や場面に応じて服装を調整した点も重要です。これは信念を曲げたのではなく、文脈を読み替えた戦略的判断です。自分の軸を失わずに、相手に伝わる形へと表現を変える。この柔軟性こそ、現代のリーダーに求められる力です。
明治初期の日本人が、国際交渉の場で着物ではなく西洋式のスーツを採用したことも、同じ構造で理解できます。それは単なる西洋模倣ではなく、「近代国家として国際社会に参加する」という意思表示でした。服装は、国家や個人の立場を可視化する戦略的なメディアなのです。
重要なのは、「何を着るのが正しいか」を外部のルールだけで決めないことです。「自分は何者として、この場に立つのか」という内なる軸から出発し、その場に最もふさわしい装いを選ぶ。これはファッションの問題にとどまらず、VUCA時代を生きる経営者やビジネスパーソンにとって、重要な意思決定の作法だと言えます。

AI時代における「ダサい」の正体と、コモディティ化からの脱却

「ダサい」は、規範から逸脱し、自由になるための力です。その気づきが、自分の心に余裕を生み、社会にも真の安定をもたらします。

AI時代には、服装であれ、ビジネスの企画であれ、「他人にどう見られるか」「世間の正解は何か」ばかりを気にして意思決定を行えば、私たちは平均値へと近づいていきます。これは、ある意味で究極の同一化です。しかし、同一化だけを続ければ、独自性は失われ、やがてコモディティ化します。ビジネスにおいては、それこそがAIに代替される最大のリスクになります。

「ダサい」とは、単に服の美醜を指す言葉ではありません。その人が、その場で、その服を着ることに対して、社会がどのような意味を読み取るのか。そのズレや違和感が、「ダサい」という評価として表れるのです。

つまり「ダサい」は、人間関係、場面、社会的状況、歴史的背景によって揺れ動く、きわめて文脈依存的なジャッジメントなのです。 だからこそ、何が「ダサい」のかを一律に決めることはできません。その都度、規範と逸脱の境界線を見極める必要があります。

問題は、「ダサい」と言われることを恐れすぎるあまり、社会の期待に自分を合わせ続け、思考を停止してしまうことです。

これからの時代に求められるのは、規範を無視することではありません。むしろ、社会の規範や同一化の力学を冷静に理解したうえで、あえて自分の哲学や美学に基づいた独自のスタイルを選ぶ勇気です。

これは、クランボルツの「プランド・ハプンスタンス」にも通じます。予期せぬ社会変化や偶然の出来事を前向きに取り込みながら、自分なりの意味を与え、新しい可能性へと変えていく。そうした柔軟性が、AI時代にはますます重要になります。

ルールの背景にある歴史を学び直し、自分だけの文脈を構築すること。それこそが、他人の目に振り回されず、自分の価値を最大化するための強力な武器になるのです。

コンサルタント 徳本昌大のView

私自身、広告会社からベンチャー企業のコンサルティングへと軸足を移した際、服装がスーツ中心からカジュアルへと変化しました。それは単に「楽だから」ではなく、そのコミュニティの価値観や働き方への自然な適応、つまり「同一化」だったのです。

特にスタートアップ界隈では、過度に形式張った装いは、時に心理的距離や意思決定スピードの遅さを連想させることがあります。 しかし一方で、周囲への適応だけでは、プロフェッショナルとしての独自性は埋没します。誰とでも同じ格好をし、同じ言葉を使い、同じ意見しか言わなければ、「代替可能な人材」になってしまうからです。 重要なのは、「土台は同一化、価値は差別化」というバランスです。

実は本書を読み進める中で、私個人として非常に興奮し、深く共感したパートがあります。それは著者が「ヒップホップとスポーツウェア」の関係性に触れ、伝説的グループであるRUN DMCの楽曲「My Adidas」を紹介している場面です。

30年以上前に、若かった私はRUN DMCのライブを見にいきましたが、彼らがアディダスのスニーカーを紐なしで履き、スポーツウェアをストリートの記号へと変貌させたあのカルチャーこそ、まさに「文脈の書き換え」による究極の差別化戦略でした。

当時、スポーツウェアやスニーカーは、あくまでアスリートのためのものでした。街中で日常着として身につけることは、まだ一般的には「ふさわしくない」と見なされていました。しかしRUN DMCは、その常識を鮮やかに書き換えます。

彼らは、自分たちの出自、文化、身体感覚、音楽性を隠すのではなく、むしろ堂々と可視化しました。これは、手元にある資源から新しい価値を生み出すエフェクチュエーションの実践でもあります。

既存のファッションルールに従うのではなく、自分たちのリアリティを起点に、新しいスタイルの文脈をつくり出したのです。 この動きに呼応するように、アディダスはスポーツ選手以外では初めてRUN DMCとスポンサー契約を結びました。ストリートから生まれた強烈な差別化は、やがて世界中に広がり、いまではアディダスをストリートファッションの定番へと押し上げています。

ライブで感じたあの熱狂は、単なる音楽の盛り上がりではありませんでした。時代の空気を変え、社会の規範を反転させるイノベーションの熱量だったのだと、本書を読んで改めて腑に落ちました。

本書『何がダサいを決めるのか』が示しているのは、「常識」や「マナー」として受け入れているものを、構造として捉え直すメタ認知の重要性です。「ダサい」と言われることを恐れて無難な選択を重ねるだけでは、自分の輪郭は失われていきます。

大切なのは、ルールを無視することではありません。そのルールがどのように生まれ、誰の価値観を反映しているのかを理解したうえで、自分は何者としてそこに立つのかを、服装や振る舞いを通じて表現することです。この自覚的なバランス感覚こそ、不確実な時代における意思決定の質を高めてくれるのです。

よくある質問(FAQ)

Q1: ファッションの知識や興味が薄いビジネスパーソンでも、本書から得られる学びはありますか?

A1: はい、非常に多くの学びがあります。本書は「お洒落になるためのノウハウ本」ではなく、服装という最も身近な素材を通じて「なぜ人間は同調圧力に縛られるのか」「社会の常識はどのように作られるのか」を紐解く社会学・思想書でもあります。

Q2: ビジネスにおいて「マナーや常識をあえて外す」とは、具体的にどのようなことでしょうか?

A2: 例えば、業界内で「対面での商談が絶対的な誠意」とされている中で、あえて完全オンラインの効率的なビジネスモデルを構築するようなケースです。ただし、本書が「文脈の理解が必要」と指摘するように、なぜ対面が重視されてきたのか(顧客の不安解消や信頼構築の歴史)を深く理解した上で、それをオンライン上で代替するテクニックを設計できなければ、ただの「礼儀知らず」として失敗してしまいます。

Q3: AI時代に「自分らしいスタイル」を確立するために、まず何から始めるべきですか?

A3: AIで外部の「正解」や「平均値」を検索するのを止め、サラスバシーのエフェクチュエーション理論が提唱するように、まずは「手持ちの手段(Who I am:自分は何者か、何が好きで、何ができるか)」を棚卸しすることです。社会のルールや流行(同一化の力学)を教養として客観的に把握した上で、「自分はどこに独自の軸(差別化)を置くのか」を日々の小さな選択、例えば毎朝の服選びから意図的に実践していくことが効果的なトレーニングになります。

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この記事を書いた人
徳本昌大

■複数の広告会社で、コミュニケーションデザインに従事後、企業支援のコンサルタントとして独立。
特にベンチャーのマーケティング戦略に強みがあり、多くの実績を残している。現在、IPO支援やM&Aのアドバイザー、ベンチャー企業の取締役や顧問として活動中。

■多様な講師をゲストに迎えるサードプレイス・ラボのアドバイザーとして、勉強会を実施。ビジネス書籍の書評をブログにて毎日更新。

■マイナビニュース、マックファンでベンチャー・スタートアップの記事を連載。

Ewilジャパン取締役COO
Quants株式会社社外取締役
Mamasan&Company 株式会社社外取締役
他ベンチャー・スタートアップの顧問先多数
iU 情報経営イノベーション専門職大学 特任教授 

■著書
「最強Appleフレームワーク」(時事通信)
「ソーシャルおじさんのiPhoneアプリ習慣術」(ラトルズ)
「図解 ソーシャルメディア早わかり」(中経出版)
「ソーシャルメディアを使っていきなり成功した人の4つの習慣」(扶桑社)
「ソーシャルメディアを武器にするための10ヵ条」(マイナビ)
など多数。
 
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