マルクス・ガブリエルの世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているかの書評


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世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか
著者:マルクス・ガブリエル
出版社:PHP研究所

本書の要約

フェイクニュースがインターネットに溢れるなか、真実を求める「新しい実在論」が注目されています。現実世界よりも非民主的で、不公平なインターネットに依存すると、人は自分の時間や能力を失います。AIへの過度の依存は経済を停滞させ、最終的に人を不幸にします。

新しい実在論とは何か?

我々の報道機関は、昔ながらの紙メディアであれソーシャル・メディアであれ、リアリティを著しくゆがめて伝えています。誰も真実を求めないからです。そこで重要なのが、「新しい実在論」なのです。「新しい実在論」はすべての人間を力づけます。真実を求めるからです。(マルクス・ガブリエル)

マルクス・ガブリエルは「新実在論」を説きますが、これは「ポストモダン以降」の時代における新しい哲学的展開です。現代はリアリティが恐ろしいほどに歪められ、人々は真実を知ることができません。政治家やメディアがフェイクニュースを流す中で、人々の態度が変われば、メディアも真実を伝える努力を始め、やがては変わるはずです。

著者は時計の針が巻き戻り始め、世界は「古き良き19世紀に戻ってきている」と言います。そんな時代に生まれた「新しい実在論」は、新しい解放宣言と位置付けられます。特に、私たちははソーシャル・メディアから、自分自身を解放しなければなりません。ソーシャル・メディアはあたかも社会であるかのように見えますが、実際の世界とは異なります。21世紀という時代に、リアルなものへ回帰するためには、いろいろな戦略を見つけ出さないといけないのです。

著者はその一つが、メディアを変えること、新しいインターネットのような、既存の形とまったく異なるメディアを創造することだと指摘します。インターネットは皆が思っているほどそれらは安全ではありません。暗号化されたものは解読されてしまうので、完璧ではないのです。そんな状態で、インターネット上に非民主的なグローバルメディア空間ができています。その空間が、私たちの主な情報源になっているのです。ここには信じられない情報やフェイクニュースが、あたかも真実のように存在しています。

ネットは一見正しそうに見えますが、我々にゆがめられた情報を植え付け、我々の知性を蝕みます。 インターネットは完全に非民主的な環境で、インターネットこそが民主主義の土台を揺るがしているのです。

「新しい実在論」は、二つのテーゼが組み合わさってできています。まったく次元が違う二つを組み合わせているため、革新的で、哲学界の歴史においては初めて提唱される考え方です。

新しい実在論の1つ目テーゼは、「あらゆる物事を包摂するような単一の現実は存在しない」という主張です。世の中には複数の現実があります。著者の第1の主張は「現実は一つではなく、数多く存在する」ということになりますが、複数の現実を一つの現実に還元することはできません。

第2の主張は、「私たちは現実をそのまま知ることができる」という考え方です。なぜなら、私たちはまさにその現実の一部であるからです。私が自分の精神状態を知ることができるのは、自分がまさにその精神状態そのものだからです。

この「新しい実在論」はデジタル革命の結果として出てきた知見です。20世紀から21世紀にかけて、世界は完全にデジタル化され、デジタル化というプロセス全体が、現実をすっかり変えてしまいました。 存在するもの・しないものに対する私たちの認識は、デジタル化によってすっかり変わりました。人間は自分たちの住む現実に対応するべく、絶えず新たな精神的現実を作り出してきたからです。

我々は現実との接触を失う経験をしています。バーチャルなソーシャルネットワークや、ポピュリスト政治、北朝鮮や習近平など独裁主義者の嘘……。事実や真実と我々の関係における、この時代の変化全体がそうです。現実と非現実の境界線がぼけているのです。「新しい実在論」によって、リアルとバーチャルの境界線を再び明確にできるようになります。

トランプやブレグジットなどのポピュリズムや独裁主義の形で、現代人が目の当たりにしている現象には、このリアルとフェイクの境界線の脱構築に深くつながっています。この境界線を再度明確に引くのが「新しい実在論」なのです。「新しい実在論」は、現代イデオロギーへのもっとも痛烈な批判になります。「新しい実在論」は、新しくグローバルに協力し合おうじゃないか、という提案で、それが「新しい実在論」が新しいと言われるゆえんです。

気候変動が世界に悪影響を及ぼしてますが、私たちがもっと興味を持つべき倫理上の問いは、「気候変動が起きている現状を変えるにはどうしたらいいか」ということです。今後数百年の問に人類が絶滅するなんて、誰も望んでいませんし、緑の多い地球であってほしいと誰もが思っています。

温暖化の解決策と問題点にはさまざまな要素があります。この方法をとればすべて解決、という単純なものではありません。 2分で終わるような提案合戦を続けていても、答えをなかなか見つけられません。ドナルド・トランプはもっと化石燃料が必要だと言うし、ドイツの「緑の党」は化石燃料は少なくていいと言います。私たちは政治家やネットの情報に左右されるのをやめ、目の前の課題についてもっと真剣な議論をすべきです。

人はいろいろなことを言います。あれこれとくだらないことも言いますが、そうすることが現実への導きを得ることにはなりません。現実へのよりまともな導きは、一緒に現実を紐とくことです。「新しい実在論」は、この思考モードにあなたを連れていきます。重要なのは、誰が何を言うかではなく、その人がしかるべき理由を持ち、正しくあるかどうかです。

人々を愚かにするインターネットに依存しない!

インターネットの本質は月並み、これに尽きます。むしろ、一般的でなければならないのです。ビッグデータとはそういうものでしょう。いいパターンではなく、月並みなパターンを探す。最良の説明ではなく、可能性を探すのです。

人は可能性を求めると、恐らく悪い選択をすることになります。インターネットの発達で、口コミが普及しましたが、趣味が悪い人ほどホテルのロコミを書きたがるものです。そういう人々の取るに足らない行動を、インターネットはいちいち律義に登録しています。現実世界では、低評価をした人物の意見があなたの決断に及ぼす影響は何一つありません。それがオンラインになった途端、その人物の薦めに従ってしまうのです。

現実では絶対に耳を傾けようとしない人の言葉を、オンラインでは鵜呑みにしてしまいます。実際に会ったら、絶対信用しないであろう人のことを信じるのが、インターネット空間なのです。インターネット上では、愚者が愚者にものを薦め合っている、とも言えます。群知能(SI)と呼ばれることで立派なものに見えますが、実際は群れの知能でなく、群れの凡庸性です。

インターネットというのは本質的に凡庸、月並みな結果をもたらすものです。凡庸でも、何も結果が出ないよりはましです。インターネットは「我々は進歩している」と吹聴しますが、過去の方がよかったことがたくさんあります。

著者は、手書きで手紙を交換していたころのほうが、いい時代だったのではないかと疑問を投げかけます。自動化によって自動的に物事がよくなっているとは、考えない方がよさそうです。自動化が最適化だというのは、昨今信じられている壮大な神話でしかありません。

自動化は物事を凡庸化してしまいます。 機械や人工知能によって時間が短縮でき、余った時間をクリエイティブな活動に充てられると言う人もいます。確かにそうですが、(グーグルやアップルなどの)カリフォルニア企業にもらった「クリエイティブな」余暇で人が何をやるかというと、ネットフリックス鑑賞です。さらにインターネットを消費する、これが現実です。

我々の余った時間はシステムにデータをフィードバックするために使われ、そうしてさらなるリコメンデーションが送られてくるという悪循環に陥っています。

毎日の仕事を終えて人が何をするかというと、今日もインターネットに助けてもらったな、さて、またインターネットでもするかといこう行動に現れます。インターネットが人類をよりクリエイティブにすることはなかったのです。

知能(intelligence)とは、与えられた時間内に与えられた課題を解決する能力だと著者は定義します。同じ課題をより速く解決することができるシステムのほうが、より知的だということは否定できません。現代人が抱える課題の多くはデジタル技術によって速く解決できるようになりました。次に電車が来るのは何時か、直接駅に行って確かめたり時刻表を読んだりするよりずっと速くわかるようになりました。

最近流行りのアルゴリズムや人工知能は、せいぜい動物的思考を真似たモデルに過ぎないと著者はいいます。アルゴリズムは、リアルな世界の思考や動物的思考のプロセスをモデル化したものではありますが、思考それ自体では決してありません。だからアルゴリズムを信用してはいけないのです。人間を信用したら、それなりのリスクが生じます。ただ、それなりのリスクとは人としての自由の代償でもあります。反対に、人とコンピューターとの関係から生じるリスクとは、機械においては(自立した行為者の)自由がまったくないということです。そのリスクがあるから機械は非常にうまく働くのですが、同時に信用できないものにもなっています。

よく機能するという、その程度にとどまっています。信用性と機能性は、全然違うものです。誰かを信用できると思ったとき、それは相手がうまく働くからではないでしょう。相手と倫理的な関係を結んでいるからです。相手に幻滅させられることもあるかもしれない。機械に幻滅させられることはありません。機械がするのは、ただ機能を止めるだけですから、人との関係のように幻滅することはありません。 

労働力が機械に置き換わるほど、経済は停滞していきます。人工知能のおかげでいくらか仕事が肩代わりされると、新たなデジタル・ワーキング・クラスが生まれます。労働力を機械に置き換えると、経済はやがて崩壊します。車を製造する人間がいなくなったら、製造によって利益(給料)を得ることができなくなり、経済活動は今後どんどん悪化します。

機会に人が置きかわるならベーシックインカムが必要になり、人々は購買を続けることができるのです。経済活動とは、お金を使って誰かがまた物を買うという円の構造になっています。この円から、人が脱落していくと人の行為も減っていきます。機械に対価を払う人はいませんし、機械は物を買いません。ですから、この経済循環に組み込まれている人間が機械に置き換わるほど、経済活動は停滞するのです。つまりロボティックスやAIが普及すると私たちは貧しくなっていくのです。

やがて、経済活動が停滞すると人工知能のために最新のクラウドコンピューターシステムをアップデートする金銭的な余裕もなくなります。そうなれば、人工知能に支えられる労働環境も崩壊してしまうのです。今まで労働を機械任せにしていたせいで働き方を忘れてしまった愚かな人間たちが最後に残ると著者は残酷な未来を予測します。彼らはやがて敵をつくり、争いを始めるでしょう。今我々が生み出しているのは、このような世界崩壊のシナリオなのです。

もし、あなたが自動化が進むことで仕事を失ってしまわないだろうかと憂慮するならば、デモに行くこと、闘うべべきだと著者はいいます。

機械に仕事を奪われるかもしれないと怯えている人たちよ、その機械は、機能的に人間よりも劣っているんです。そのことをこれでもかというほど見せつけてやりなさい。石を投げ、機械を破壊するくらいのことをしてもいい。立ち上がって闘う代わりに、人はインターネットに没頭して自らを愚かにしています。

中途半端なインターネットやAIに依存しすぎるのやめ、私たちはネットとの距離を適度におくべきです。人間を向上させるような哲学や瞑想の時間を取り入れ、何が正しいのかを真剣に考えた方がよさそうです。著者が主張する「新しい実在論」を読むことで、私たちは考えるきっかけをつくれ、愚かな存在になることを防げます。

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