英語が国際語になった理由は、ルーンショットにあり!


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LOONSHOTS<ルーンショット> クレイジーを最高のイノベーションにする
著者:サフィ・バーコール
出版社:日経BP

本書の要約

「誰からも相手にされず、クレイジーと思われるが、実は世の中を変えるような画期的アイデアやプロジェクト」であるルーンショットが足りず、中国やインドは没落していきます。逆に小国だったイギリスは、相分離、動的平衡、クリティカルマスの3要素を活用し、ルーンショットを起こすことで、大英帝国を繁栄させたのです。

なぜ、中国とインドは衰退したいのか?

もしあなたが宇宙から地球を訪れて、類人猿から狩猟採集民、定住農民に至る人類の歴史を小説のように読みながら、科学や産業の革命がいつどこで起きるだろうと想像したなら、ほぼ間違いなく中国やインドと考えるのではないか。(サフィ・バーコール)

サフィ・バーコールLOONSHOTS<ルーンショット> クレイジーを最高のイノベーションにするの書評を続けます。古代から15世紀までの大国を挙げるとすれば、多くの人の頭には中国とインドが浮かぶはずです。紀元後、最初の1000年の半ばから次の1000年の半ばまで(紀元500年から1500年くらいまで)の1000年間、世界の経済を支配したのは中国とインドであったことは間違いありません。

この間の中国とインドのGDPを合計するとその平均で世界の半分を超えていたとのことです。対して、現在の先進国である西ヨーロッパの5大国は平均でわずか1~2パーセントに過ぎないことがわかっています。

紙と印刷が中国で登場したのは、ヨーロッパより何百年も早かったですし、磁気コンパス、火薬、大砲、クランク軸、深井戸掘削、鋳鉄、紙幣、高度な天文台も中国にその起源が求められます。かつての中国の識字率は推定45パーセントと高く、イギリスの6パーセント程度より遥かに上をいっていました。

15世紀初め、中国海軍は2万8000人、艦船300隻、総重量3100トンという大艦隊を有し、中国と北アフリカとの間を往復していました。その頃のヨーロッパの商船力は貧弱で、15世期半ばにようやくコロンブスが登場します。

中国のゴリアテはヨーロッパのダビデよりはるかに大きく、裕福で、技術的に進んでいた。だが、そうした長い期間のうちに妙なことが起きた。巨人の中国が内向きになり、多大なリソースを要する大規模プロジェクトに着手し始めたのだ。

しかし、このタイミングで中国は成長を止めてしまいます。彼らは新しい首都(北京)、万里の長城、大運河などの建設(フランチャイズプロジェクト)に時間とお金を割くようになったのです。中国の指導者たちは、誰からも相手にされないバカげたアイデアへの関心を失い、そこへの投資をやめてしまったのです。

中国には「誰からも相手にされず、クレイジーと思われるが、実は世の中を変えるような画期的アイデアやプロジェクト」であるルーンショットを起こすことをやめ、大国の座をイギリスに譲ることになります。

ルーンショットの3条件がイギリスを勝者に変えた!

わが国では何も不足していません。見知らぬもの、独創的なものは重んじられておらず、貴国の製品は必要ありません。(乾隆帝)

英国が18世紀に貿易の拡大を中国に迫ったとき、乾隆帝はジョージ3世に貿易を断る書面を送ったと言います。その後間もなく、独創的なアイデアの一つである英ネメシス号の艦隊が中国沿岸に到来し、数週間もたたないうちに中国海軍の古い船は沈められました。

この頃のインドは、さまざまな君主や皇帝による600年の統治を引き継いだムガル帝国が支配していました。中国の皇帝と同じく、彼らもイギリスのルーンショットを見過ごしていました。1764年に英国の貿易会社がインドの支配権を握り、1857年にインドは英国の植民地となってしまったのです。

2000年にわたる異文化との接触によって、ヨーロッパには、中国からは各種の技術、インドからは数学、イスラム世界からは天文学が輸入されました。こうした接触・交流が、新しい考え方を生み出しました。中国とインドの指導者が同じ認識にたどり着いたのは、何百年もたってからでした。彼らはルーンショットをスルーすることで、西洋に支配されてしまいます。

産業革命以前の1万年もの間、平均寿命はほとんど変わりませんでしたが、1800年から2000年にかけて、それは2倍に延びました。紀元1年から1800年まで、世界の人口増加率は年0.1パーセントに満たなかったのですが、20世紀半ばにはその20倍になっていました。

世界の一人当たり経済生産高の平均値は1800年以前の2000年間ほぼ一定で、1990年時点のドル換算で450~650ドルでしたが、1800年以降1000パーセントも増加しました。イギリスを中心とする西ヨーロッパの小さな国民国家は、そんなルーンショットの波に乗って世界を支配したのです。グローバルなビジネス言語が中国語やアラビア語やヒンズー語ではなく英語になったのは、それが主な理由です。

富や貿易、組織的研究、初期の科学技術については、中国、インドおよびイスラム帝国が1000年間も世界をリードしていたのに、なぜルーンショットは17世紀頃の西ヨーロッパに現れ、急速に広まったのでしょうか?

たとえばイスラム帝国は、9~15世紀に、数学、天文学、光学、医学、さらには西欧の科学を生んだ図書館、病院、初期の大学、天文台に関して、西洋にも中国にも勝っていました。コペルニクスは重要な数学的手法の多くをアラブの天文学者から直接拝借したと言います。

1025年、ペルシャの医師・哲学者のイブン・シーナー(西洋ではアヴィセンナ)は『医学典範』を書きました。これは700年もの間、ヨーロッパで医学の教科書として最も広く使われていました。

ここでルーンショットの3条件を思い出してみましょう。(ルーンショットの3条件の記事
1、相分離
ルーンショット集団とフランチャイズ集団を分離します。

2、動的平衡
ルーンショット集団とフランチャイズ集団ののシームレスな交流を促します。

3、クリティカルマス
いくつものルーンショット集団が存在することが求められます。 企業が成功したら、いくつものルーンショットに投資し、そこから新たなブレイクスルーを起こしていく必要があります。

11~12世紀の中国・北宋はクリティカルマスに達しました。鋼や鉄の生産が爆発的に伸び、紙幣、印刷、市場取引が急増しました。宋の技術革新は、軍事(銃、大砲、爆弾)から運輸(水門付きの運河)、航法(磁気コンパス、船尾舵)、製造(水力紡績機)にまで及んでいたのです。この時期は「最初の奇跡的な産業発展期」と呼ばれています。

これに匹敵する生産性や技術革新は、600年後のヨーロッパまで現れませんでした。中国はクリティカルマス(条件3)を達成しましたが、相分離(条件1)と動的平衡(条件2)を実現できなかったため、ルーンショットを起こせなかったのです。

「科学者」の結論より、中国における政争や皇帝の偏見が常に優先されました。たとえば、天文学の天才の沈括が新しい体系づくりに取り組み始めて7年後皇帝はもう十分だと考え、プロジェクトを打ち切ってしまったのです。

宋の皇帝はルーンショット集団を隔離(相分離)せず、ルーンショットとフランチャイズのバランス(平衡)を保たなかったのです。もし宋の皇帝がルーンショットの3条件を満たしていれば、科学革命や産業革命は500年早く中国で起こっていたはずです。そして、現在、世界の人々は英語の代わりに中国語を話していたと著者は指摘します。

成功を持続させるためには、ルーンショット養成所の存在(相分離=条件1)だけでは十分ではありません。大きな帝国との頻繁な交流(動的平衡=条件2)がそこには必要です。インドの学者やイスラムの天文学者から拝借した数学がなければ、コペルニクスの理論はなく、中国から輸入した航法、交通、通信、灌概、鉱業、軍事技術がなければ、星の動きを理論化するための富や知識はヨーロッパに育たなかったのです。

相分離と動的平衡あったからこそ、西ヨーロッパはクリティカルマス(条件3)を達成できたのです。何千年にもわたる地動説をひっくり返すには、たった一つではなく、いくつものルーンショットが必要でした。

クリティカルマスに達したヨーロッパでは、新しい発見が連綿と続いきました。望遠鏡(オランダ)を空に向けた(イタリア)結果、楕円軌道(ドイツ)や地球の動き(ポーランド)が確認され、それが最終的に慣性(イタリア)や幾何学(フランス)の考え方と組み合わされて運動の統一理論(イギリス)につながったのです。この連鎖反応がクリティカルマスなのです。

中国、イスラム、インドの各帝国はいわば大手の国家で、西ヨーロッパの多様で活力ある国々は、当時、世界に新しいアイデアを供給するルーンショット養成所だった。何百という小さなスタジオが新しい映画のルーンショット養成所として機能し、何百という小さなバイオテクノロジー企業が新しい医薬品のルーンショット養成所として機能するのと同じだ。

では、なぜフランスやイタリアやオランダではなく、イギリスが勝者になったのでしょうか?優れた科学者をイギリスが独占していたわけではありません。西ヨーロッパのほとんどの国に優れた科学者がいて、彼らも独創的な研究を行なっていました。

イギリスには近隣諸国と違う点、近隣諸国より秀でた行動が一つありました。彼らは店内たちを集めたルーンショット養成所をつくって成功させたのです。1660年創設のロンドン王立協会には、ロバート・ボイル、ロバート・フック、アイザック・ニュートンなど、イギリスの近代科学の創始者がほぼ全員集まりました。

王立協会がニュートンに重要な影響を与え、支援を提供したことはよく知られています。もし、この養成所がなければ、ニュートンの法則として現在知られているものが別の名前になっていたかもしれません。

ドイツのゴットフリート・ライプニッツはニュートンと同じ頃、独自に微積分を考案していましたし、オランダのクリスティアーン・ホイヘンスは、遠心力という概念、光の波動説、現代の確率論を考え出したほか、振り子時計を発明していました。彼ら以外にも西ヨーロッパには、多くの天才がいましたが、ニュートンが歴史に名を残したのは、王立協会とうルーンショット養成所があったからなのです。

相分離、動的平衡、クリティカルマスというルーンショットの3要素が、イギリスに繁栄をもたらしたのです。

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この記事を書いた人
徳本昌大

■複数の広告会社で、コミュニケーションデザインに従事後、企業支援のコンサルタントとして独立。
特にベンチャーのマーケティング戦略に強みがあり、多くの実績を残している。現在、IPO支援やM&Aのアドバイザー、ベンチャー企業の取締役や顧問として活動中。

■多様な講師をゲストに迎えるサードプレイス・ラボのアドバイザーとして、勉強会を実施。ビジネス書籍の書評をブログにて毎日更新。

■マイナビニュース、マックファンでベンチャー・スタートアップの記事を連載。

■インバウンド、海外進出のEwilジャパン取締役COO
IoT、システム開発のビズライトテクノロジー 取締役
みらいチャレンジ ファウンダー
他ベンチャー・スタートアップの顧問先多数 

■著書
「ソーシャルおじさんのiPhoneアプリ習慣術」(ラトルズ)
「図解 ソーシャルメディア早わかり」(中経出版)
「ソーシャルメディアを使っていきなり成功した人の4つの習慣」(扶桑社)
「ソーシャルメディアを武器にするための10ヵ条」(マイナビ)
など多数。
 
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