訂正する力
東浩紀
朝日新聞出版
訂正する力 (東浩紀)の要約
日本の多くの課題に対応するためには、新しいアイディアだけでなく、過去の過ちを訂正する能力が必要です。「訂正する力」は、過去の経験を活かしながら新しい情報に柔軟に対応することを意味します。訂正する力を持つことで、組織も個人もよりよい未来を築くことができます。
訂正する力が足りない日本人
いまの日本人はひとが自分の意見や人生を訂正することを嫌います。だから逆に、いちどレッテルが貼られると、そのレッテルでしか仕事ができなくなる。それ以外の可能性もあるはずなのに、レッテルが邪魔をして注目してもらえない。(東浩紀)
批評家・作家である東浩紀氏が指摘するように、現代の日本人は、自分の意見や人生を他者に訂正されることを極端に嫌います。このため、一度ラベルが貼られると、そのラベルに縛られ、他の可能性を探ることが難しくなります。このような状況は、日本の文化や価値観に根ざしています。 日本の伝統的な価値観では、誤りを認めることは弱さと見なされ、その結果、謝罪することも避けられがちです。
政治家や官僚は、自らのミスを公然と認めることは少なく、計画や方針の変更も難しい。このような文化の中で、議論や意見交換が行われる場面でも、自分の意見を変えることは難しいと感じる人が多いのです。 しかし、社会や組織が進化し続けるためには、過去の過ちや誤りを認め、それを訂正する力が必要です。
日本が直面している多くの課題や問題に対して、単に新しいアイディアや方針を探求するだけでは十分ではありません。それよりも、過去の過ちや誤解を認識し、それを訂正する勇気と柔軟性が求められています。
この「訂正する力」は、過去の経験や知識を活かしつつ、新しい情報や状況に柔軟に対応する能力を意味します。そして、この力を持つことで、個人や組織は、より良い未来を築くことができるのです。
訂正する力は、過去の過ちをリセットし、新しい方向に進む勇気と、自らの信念や価値観にぶれない強さのバランスを取ることを求められます。このバランスを取ることで、真の意味での進化や成長が可能となります。現代の日本社会において、この「訂正する力」を取り戻し、新しい価値観や文化を築くことが、次世代への貴重な遺産となるでしょう。
政治の世界では、保守とリベラルという異なる価値観や思想を持つ人々が対立することがしばしばあります。しかし、真の意味での対話や協力を実現するためには、お互いの過去の誤りや偏見を認め、それを訂正することが不可欠です。このような訂正のプロセスを通じて、より建設的な議論や合意形成が可能となります。
また、高齢化が進む日本において、老いを否定するのではなく、それを肯定し、新しい価値や可能性を見出すことが重要です。このためにも、過去のステレオタイプや偏見を訂正し、新しい視点や考え方を取り入れることが求められます。 ビジネスの世界でも、組織の成長や変革を実現するためには、過去の失敗や誤った方針を認め、それを訂正することが不可欠です。
この「訂正する力」を持つことで、組織はより柔軟に変化に対応し、新しい価値を創出することができるのです。 現代の日本人も歴史や文化、思想においても、過去の誤解や偏見を訂正し、新しい理解や視点を持つことで、より深い洞察や知識が得られると著者は述べています。
訂正する力を政治が取り戻した方がよい理由
人間のコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとします。かくれんぼだったのが、いつのまにか鬼ごっこになっている。鬼ごっこだったのが、いつのまにか別の遊びになっている。そのようなことはよくあります。
人間のコミュニケーションは流動的で、常に変化しています。子どもたちが遊びながら自然にルールを変えていく様子は、私たちの日常のコミュニケーションの縮図とも言えます。彼らは遊びの中で、何が楽しいのか、何がうまくいくのかを探りながら、ルールを変えていきます。それは意識的なものではなく、自然な流れの中で起こることです。
哲学者のウィトゲンシュタインは、言語やコミュニケーションの性質について深く考察しました。彼の考え方を簡単に言うと、言語やコミュニケーションは固定されたルールに基づくものではなく、常に変化し続けるものであるということです。
スポーツのゲームも同じです。サッカーや野球のルールは、その歴史の中で何度も変わってきました。それは、選手や観客のニーズに応じて、より良いゲームを目指して「訂正」されてきた結果です。ゲームが続く限り、ルールは変わり続けるでしょう。
しかし、日本の社会では、変化や訂正を恐れ、固定的な考え方や価値観を持つことが美徳とされてきました。しかし、変化や成熟を恐れることは、社会の発展や持続を妨げることになります。私たちは、変化や訂正を恐れず、それを受け入れ、成熟していく必要があります。そして、それは「訂正する力」という、新しい価値観や考え方を持つことを意味します。
ヨーロッパの強さは、この訂正する力の強さにあります。それはきわめて保守的でありながら同時に改革的な力でもあります。ルールチェンジを頻繁にすることによって、たえず自分たちに有利な状況をつくり出す。それなのに伝統を守っているふりもする。それはヨーロッパのずるさであると同時に賢さであり、したたかさなのです。
真のコミュニケーションの鍵は、異なる意見や価値観を持つ人々との間に適切な距離感を持つことです。それは、すぐに理解や包摂を求めるのではなく、理解できない部分を受け入れ、そのまま「放置」することを意味します。
しかし、現代の日本社会は、このような距離感を持つことが難しくなっています。それは、社会全体が一つの意見や価値観に固執し、異なる意見を排除する傾向が強まっているからです。分断化が進む中で、自分の意見を訂正することは負けを認めることと同義なのです。 特に、SNSが台頭する中で、人々が自らの意見や人生を「訂正」することを嫌う風潮が強まっています。
その結果、一度レッテルを貼られると、そのレッテルに縛られ、他の可能性を追求することが難しくなっています。このような状況は、社会の多様性や柔軟性を失わせ、停滞を招いています。 また、日本の議論の場においても、リベラル派や保守派の間に「訂正しない勢力」が存在しています。
彼らは自らの意見や価値観を固定し、変化や訂正を拒否することでアイデンティティを保とうとしています。このような態度は、議論の硬直化を招き、社会の前進を妨げています。 ポリティカル・コレクトネスの本来の意味は、過去の価値観や行為を現在の視点で反省し、訂正することです。
しかし、現代の日本社会では、この精神が誤解され、一方的な正しさを強制する風潮が強まっています。真のポリティカル・コレクトネスは、過去の行為や発言を一刀両断にせず、複雑な文脈を理解し、適切な距離感を持って接することを求めています。 私たちは、このような状況を乗り越え、真のコミュニケーションとポリティカル・コレクトネスの精神を取り戻す必要があります。
訂正する力で人生がよくなる理由
訂正する力の核心は、「じつは……だった」という発見の感覚にあります。ひとは、新たな情報を得たときに、現在の認識を改めるだけでなく、「じつは……だった」というかたちで過去の定義に遡り、概念の歴史を頭のなかで書き換えることができます。人間や集団のアイデンティティは、じつはそのような現在と過去とをつなぐ「遡行的訂正のダイナミズム」がなくては成立しません。
「訂正する力」は、私たちが新しい情報や知識を得たときに、単に現在の認識を更新するだけでなく、過去の認識や経験を再評価し、再解釈する能力を指します。この力は、「じつは……だった」という発見の瞬間に最も鮮明に現れます。
この瞬間は、私たちが過去の事実や経験を新しい視点で見直し、それに基づいて自分の認識や価値観を再構築する瞬間です。 日常生活の中で、私たちは時間や情報の制約のもとで、他者とのコミュニケーションを行っています。そのため、他者を一定のカテゴリーや類型に分類し、その基準に基づいて交流を行うことが多いです。
しかし、このような類型的なコミュニケーションは、真の意味での相互理解や深い関係性の構築を妨げることがあります。 真のコミュニケーションを実現するためには、「余剰の情報」を共有することが鍵となります。これは、類型やカテゴリーに縛られず、自分自身の独自性や他者の多様性を受け入れ、それを共有することを意味します。
このような「余剰の情報」の共有によって、相手との間に新しい発見や共感が生まれ、真の意味での相互理解が深まるのです。 また、この「訂正する力」を最大限に活用するためには、時間的な余裕を持つことが重要です。時間的な余裕を持つことで、自分自身や他者との関係をじっくりと見つめ直し、新しい発見や理解を得ることができるのです。
年齢を重ねることは、過去の自分と現在の自分の間にギャップを生むことが多いです。そのギャップに直面すると、自分の成長や変化に対する不安や迷いが生まれることもあります。しかし、そのような時期を乗り越えるための鍵は「訂正する力」にあります。 「余剰の情報」を自分の周りに持つことで、他者からの一方的な期待や役割を避け、自分を再発見する機会を増やすことができます。
これにより、自分の価値や存在意義を再確認し、人間関係を持続的に築いていくことが可能となります。私も自分の思考や行動を訂正することで、人生を楽しくできたので、著者の主張には共感を覚えます。
信者のように盲目的に追従する人たちに囲まれることも、自分の成長や自由を制限する要因となることがあります。真の豊かさは、自分を理解し、訂正してくれる人たちとの関係の中で得られるものです。 訂正する力を持つことで、自分のイメージや価値観を柔軟に保ちながら、他者との関係を深化させることができます。他者のイメージや価値観も同様に柔軟に受け入れ、理解することで、人生はより豊かで楽しいものとなります。
かつての日本は、ヨーロッパのように「訂正できる国」としての性質を持っていました。一つの考えや正しさに固執することなく、自らの考えや行動に対して批判的な視点を持ち続ける柔軟性がありました。政治の領域でも、常に新しい視点や考え方を取り入れることを重視していたのです。明治のころの日本はこの訂正する力があったから、成長できたのです。
この「訂正する力」の歴史を再認識することは、日本が直面している現代の課題を乗り越えるための鍵となるでしょう。本書では、そのような視点から新しい道を提案します。それは「自然を作為する(第三者の立場に立つ)」という考え方です。変化を受け入れつつも、その中での安定性や均衡を保ち続ける力、それが「訂正する力」です。
この考え方は、平和主義の思想とも深く関連しています。平和とは、単に戦争の不在だけでなく、政治的な対立や分断を乗り越える力でもあります。しかし、そのような平和を実現するためには、政治の力が必要です。平和な社会は、多様な意見や考え方が共存する「喧騒の中の平和」であると東氏は指摘します。
日本には、多様性を尊重し、異なる意見や考え方を共存させる文化的な伝統があります。この伝統を現代に活かし、国際社会に向けて発信することで、日本の新しい役割を築くことができます。訂正する力を再び取り戻し、平和の新しい定義を築くこと。それが、日本の新たな未来を切り開く道となるのです。
「訂正する力」を持つことで、人は過去の選択や考え方に固執することなく、新しい情報や状況に柔軟に対応することができるようになります。これにより、人生をより良い方向に導くことができるのです。
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