AI時代に読書は必要か|『本を読めなくなった人たち』(稲田豊史)の書評

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書籍:本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形
著者:稲田豊史
出版社:中央公論新社
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30秒でわかる本書のポイント

【結論】: 長文読解能力は、かつての「ラテン語」のように、一部の層だけが持つ「希少な特殊技能・教養」へと変化しつつある。
【原因】: AIによる要約、動画・SNSでの情報摂取、さらには「文章はタダ(インフラ)」という認識の浸透により、読書のコスト(時間・金銭・集中力)が便益を上回ってしまったため。
【対策】: 送り手は「テキスト中心主義」を脱却し、受け手は「わかりみ(コスパ)」だけでなく、問いが生まれる「おもしろみ」の価値を再認識する必要がある。

本書の要約

現代人は「本を読めなくなった」のではなく、タイパ至上主義の中で、時間・金銭・集中力を投じる「読書のコスト」が便益を上回った結果、合理的に「読まない」選択をしています。AIの要約や動画が知識の代替手段となり、文章が「無料のインフラ」化したことで、わざわざ一冊の本に挑む必要性が薄れているのです。
著者は、効率的な納得を求める感情を「わかりみ(コスパ)」、未知の視点に翻弄される醍醐味を「おもしろみ(探求)」と定義し、現代が前者に偏重していると分析します。もはや長文を自力で読み解く力は、かつての「ラテン語」のように、時間と経済のゆとりを持つ層だけが維持できる「希少な特権的教養」へと変質しつつあるのです

おすすめの人

・「最近、本を1冊読み通すのがしんどい」と感じている人
・タイパやコスパを重視する社会の空気に息苦しさを感じている人
・出版、広告、Webメディアなど、テキストを扱う仕事に携わっている人
・AI時代の教育や、知性の在り方に関心がある保護者や教育関係者
・動画やSNSでの情報摂取に物足りなさを感じ始めている人

読書が得られるメリット

・希少な知的能力の獲得: 多くの人が短文や動画に流れる中で、複雑な論旨を読み解く力は、ビジネスや教養において独自の優位性(ラテン語のような希少性)をもたらします。
・「問い」を生む思考のトリガー: インスタントな「わかりみ」で終わるのではなく、自分の思考の枠組みを根底から揺さぶる「おもしろみ」に出会うことで、一生モノの探求心が芽生えます。
・精神的な贅沢と余白: 目的のない読書や書店巡りは、タイパ至上主義から離れ、自分を取り戻すための最も贅沢で豊かな知的儀式となります。
・情報の深い再解釈: AIや動画による受動的な情報摂取では到達できない、自分の文脈に引き寄せた「深い理解と構造化」が可能になります。

AIが要約する時代、人はもう本を読まないのか?

もはや多くの現代人には、ネット上でニュースや記事を読む際にお金を払うという発想がない。地球上における空気、あるいは日本における平和や水と同じように、文章もタダだと思っている。(稲田豊史)

AIの普及で、人はますます本を読まなくなっています。わからないことがあればGoogleのAI検索すをる。いまや、その検索結果さえAIが要約してくれる時代です。長い記事を最初から最後まで読む必要はありません。

まして、本を一冊通して読む必要など、若い世代になるほど感じにくくなっています。必要な情報だけを、短く、早く、負荷なく受け取る。タイパ時代の情報摂取のスタイルは、その方向へ一貫して進化してきました。

しかも、もはや多くの現代人には、ネット上でニュースや記事を読むためにお金を払うという発想そのものがありません。彼らはネットに接続すれば、文章は基本的にタダで手に入るものだと思っています。少なくとも、そうした感覚はすでに相当広く浸透しています。

この感覚は、じつはとても重い意味を持っています。なぜならそれは、文章の価値が消えたということではなく、文章が「無料で無限に供給されるインフラ」になったということだからです。インフラになったものは、ふだん意識されません。当たり前のような存在の空気に感謝しないのと同じように、人は文章そのものにも対価を払おうとしなくなります。読み手の側に悪意があるわけではありません。情報が手に入るネット環境がメディアや読書のスタイルを激変させているのです。

その先で起きるのは、きわめて当然の変化です。無料で読める記事が無数にあり、SNSには要点が流れ、YouTubeが噛み砕いて説明し、AIが要約まで引き受けてくれるなら、本は「読めなくなった」のではなく、読む必要が薄れたと考えるほうが自然です。

稲田豊史氏の本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形は、まさにこの変化を、感傷ではなく観察によって捉えた一冊です。ベストセラーの映画を早送りで観る人たちの問題意識を引き継ぎながら、本書はコスパやタイパを重視する現代の消費感覚が、いま「読書」にどんな圧力をかけているのかを、解像度高く描き出していきます。(稲田豊史氏の関連記事

本書が優れているのは、若い世代の読書離れを安直な精神論で語らないことです。 最近の若者は本を読まない。集中力がない。深く考えない。そうした嘆きは、いかにももっともらしく聞こえます。

ですが、本書はそうした前提に捉われず、若者との対話を取り続けます。実際に10代、20代の声を拾いながら、彼らがなぜ本ではなく動画を選ぶのか、なぜわざわざ時間とお金をかけて読書する意味を感じにくいのかを丁寧に掘っていきます。

すると見えてくるのは、能力の低下ではなく、選択の合理性です。 若い世代にとって本は、もはや情報を得るための特別なツールではありません。

検索、動画、SNS、音声、要約、AI。知識へたどり着くルートは日々増え続けています。その中で、最も時間がかかり、集中力を要求し、しかも結論にたどり着くまでの距離が長い本を、あえて選ばない。これは退化ではなく、時代の変化に乗った彼らの生存戦略なのかもしれません。

本をたくさん読んでいる人が必ずしも賢いわけではないというものだ。

かつては、何かを深く知ろうと思えば、本を読むほかありませんでした。 しかし今は違います。本を読まなくても、要約や解説を通じて「知った気になれる」だけでなく、実際にかなりの情報へ到達できます。

しかも、NotebookLMのようなAIを使えば、情報を整理するだけでなく、一人で読書会のように問いを深めたり、Podcastのように耳から学びを補強したりすることもできます。 そうであるなら、読書が時間と集中力を要する、いわば少し贅沢な知的行為へと押し上げられていくのは、ある意味で当然の流れでしょう。

読書離れとは、知性の崩壊ではありません。 それは、情報流通の摩擦が極端に小さくなった社会で起きている、きわめて構造的な変化なのです。その変化の中で賢くなる人もいれば、情報に流される人もいるのです。

読書は〈わかりみ〉と〈おもしろみ〉に分かれる?

〈わかりみ〉=コスパ重視、〈おもしろみ〉=コスパ度外視 

「わかりやすい」と「おもしろい」は、似て非なる読書体験だと著者は指摘します。 「わかりやすい」文章は、たしかにとっつきがよく、読みやすいというメリットがあります。読み終えて「理解・共感・同意」するのも気持ちがいいことは間違いありません。しかし、本を閉じた瞬間に探求の旅は終わります。

一方、「おもしろい」文章は、そこから始まります。 読者がもともと持っていなかった視点を突きつけ、聞いたこともない概念、初めて触れる思考の枠組み、使ったことのない言葉が次々と押し寄せます。途中で脱落する人も多いのですが、この壁を乗り越えた人は、まったく新しい思考のフレームを手にします。新しい問いが自然と湧きあがり、そこから探求の旅がスタートするのです。

著者はこの二つの読書体験を、こう整理します。 〈わかりみ〉とは、疑問が解かれて思考が止まるときの感情。〈おもしろみ〉とは、問いが生まれて思考が動き出すときの感情です。 登山にたとえるなら、〈わかりみ〉は頂上に立ったときの達成感。〈おもしろみ〉は頂上から世界を見晴らし、その広大さに圧倒される感覚に近いでしょう。

ビジネス的に言えば、〈わかりみ〉はコスパ重視、〈おもしろみ〉はコスパ度外視の読書体験です。 どちらが正しいかではありません。ただ、自分の思考を根底から変えてくれるのは、いつも「おもしろい」の方ではないでしょうか。​​​​​​​​​​​​​​​​

本書の図を参考に作成

〈わかりみ〉を求める人は、かけた労力に対して、具体的なリターンが大きいほど嬉しいと感じます。

明日から使えるビジネステクニック。物語に費やした時間に完全比例したカタルシス。ためになった、得をしたと感じられる知識や情報。世の中の動きをキャッチアップできたという安心感。平易な言葉による複雑な状況のインスタントな整理。彼らが本から得たいのは、そういうものです。

一方、〈おもしろみ〉を求める人は、読書体験そのものを重視します。高度な思索に耽っているという喜び。脳を激しくぶん回しているという陶酔。新しい概念が自分にインストールされた衝撃。体系的な知の全貌を俯瞰できたときの、えも言われぬ充足感。そこにコスパの概念はありません。 読書とは何のためにするのか。その問いへの答えが、〈わかりみ〉と〈おもしろみ〉という二つの感情に、くっきりと映し出されているのかもしれません。​​​​​​​​​​​​​​​​

私は小説やビジネス書、哲学書、歴史書から多くの学びを得ているので、これからも〈おもしろみ〉を追求していきたいと思います。

ラテン語する読書?

結局のところ、相応の検討コストをかけられるのも、セレンディピティの価値を味わえるのも、精神的余裕のある生活者に限られる。多くの人にとって精神的余裕は時間的余裕から来るものであり、時間的余裕は経済的余裕から来るものだ。  

本書の鋭さは、書店空間への若者世代の反応についてもレポートしていますが、彼らは本選びの選択肢の多さそのものを負荷として感じています。服や雑貨の売り場では売れ筋があらかじめ絞り込まれ、選ぶ行為が棚の段階で代行されます。

一方で書店は、網羅性を重視した配置を維持し、来店者に判断を委ね続けてきました。 その結果、何を手に取るかという思考のコストが空間全体に拡散します。書店から距離を取る動きは、選択を引き受ける場への躊躇として姿を現しているのです。

ここで見落とせないのが「セレンディピティ」の問題です。セレンディピティとは、もともと18世紀のイギリスの作家ホレス・ウォルポールがペルシャの童話『セレンディップの三人の王子』から着想して造った言葉で、「偶然の幸運な発見」を意味します。

書店好きが書店に通う最大の理由のひとつが、まさにこのセレンディピティ——目当ての本ではなく、棚の間をさまよう中で偶然出会った一冊が、自分の人生や仕事を変えてくれるという体験です。私自身も書店でのセレンディップによって、何冊もの良書と出会ってきました。

しかし本書が突きつけるのは、このセレンディピティを享受できること自体がすでに特権であるという事実です。偶然の出会いを楽しむには、目的なく書店を歩き回る時間と、「外れ」かもしれない本に数千円を投じる経済的余裕と、未知の情報に心を開く精神的なゆとりが必要です。

著者が指摘するように、長い文章を読めるのはそもそも特殊能力であり、多くの人は放っておいても本など読みません。業界の常識は、世間の非常識だったのかもしれません。

いずれ「長く、それなりに複雑な論旨の文章が自力で読めます」という自己アピールは、高い教養と希少な能力の顕示という点において、「ラテン語ができます」くらいの意味合いになっていくのではないか。

 さらに著者は、紙の本を読む行為が今後ますます特権的なものになっていく可能性を示します。書店をゆっくり歩き、棚を眺め、気になった本に数千円を払う。そうした行為は、本来きわめて豊かな知的体験ですが、時間にもお金にも余裕がなければ成り立ちません。

精神的な余白は時間の余白から生まれ、時間の余白はしばしば経済的な余白に支えられています。そう考えると、読書はもはや万人に開かれた日常習慣というより、一定の余裕を持つ人だけが維持できる「贅沢なふるまい」に近づいているのかもしれません。

かつて本好きのあいだで当然だった「気になる本はとりあえず買う」という習慣も、いまや当たり前ではありません。紙の本を買うという行為そのものが、徐々に富裕層的な消費へと変わりつつあるのです。

本書の視野がさらに興味深いのは、この変化を現代の流行としてではなく、歴史の流れの中で捉えている点です。著者は、識字率が低かった中世ヨーロッパでは、人々に聖書を直接読ませるのではなく、絵画、彫刻、ステンドグラス、朗読、説教、賛美歌といった多様な手段で物語を伝えていたことを想起させます。

文章を読めない人に、視覚や音声や物語で伝える。その構造は、情報取得の主役がテキストから動画や音声へと移っている現代と不気味なほど重なります。

私たちはつい、文字を読むことが文明の標準形だと思いがちです。けれども人類史全体で見れば、テキストが情報伝達の中心にあった時代のほうが、むしろ例外だったのかもしれません。 だからこそ著者の未来予測は鋭いのです。

これから「長くて複雑な文章を自力で読める」という能力は、かつての「ラテン語ができます」に近い意味を持つようになるかもしれない。つまり、役に立たないわけではないが、誰もが当然に身につけるものではなく、持っている人にだけ一種の教養と希少性を与える能力です。

電卓が暗算を、ワープロが手書き漢字を、翻訳アプリが外国語読解を相対化したように、長文読解もまた、なくては困る必須技能から、あれば確かに強いが時間をかけて磨くべきかは再考される能力へと変わっていくという著者の見立てはかなり説得的です。

読書が希少になるほど、その行為には教養や自意識や選ばれた感覚が混ざりやすくなるでしょう。紙の本を読むことは、やがて「選ばれし者たちの古き良き嗜み」として残っていくのかもしれません。

ただし本書が誠実なのは、その変化を善悪で裁かないことです。若者の読書離れを嘆いたり、読まない人を軽んじたりはしていません。むしろ、いまの環境では本が読まれなくなるのは合理的だという側の論理を丁寧にすくい上げます。

その視線は同時に、紙の本を当然視し、読む側の努力に依存しすぎてきた出版業界への問いにもなっています。どれほど良い本でも、届け方が時代に合っていなければ届かない。動画やSNSが情報摂取の中心になったいま、問われているのは中身だけではなく、接点の設計そのものです。

この問題は出版に限りません。テキストで価値を届けようとするすべてのビジネスに共通する課題です。 その一方で、本書は逆説的に読書の価値も浮かび上がらせます。長い文章を読み切り、自分の中で構造化し、他者の思考を踏まえて新しい言葉を編み直す力は、情報があふれる時代ほど貴重になります。

動画で知識を得ることはできますが、情報を自分の文脈の中で深く再解釈する力は、やはりテキストと向き合う経験なしには育ちにくい。

だから「長文が読める」という能力は、時代遅れになるのではなく、むしろ希少だからこそ独自の優位性を持つようになるのでしょう。経営者やマーケターにとっても示唆は大きく、広く消費者に届けたいならテキスト中心主義を見直す必要がありますし、深い知的体験を求める読者に届けたいなら、その慎重な選択眼に応えるだけの質が求められます。

コンサルタント徳本昌大のView

本書は、「若者の読書離れ」を扱った本である以上に、「読書を当然だと思ってきた人」にとっての本かもしれません。本を読むことは尊い。読書は思考を深める。そう信じること自体は間違っていません。けれども、その感覚がすでに少数派のものになりつつあるとしたらどうでしょうか。

私たちが当たり前だと思ってきた読書体験は、実はかなり特殊な環境の上に成立していたのではないか。そうした問いを、本書は容赦なく差し出してきます。 本を読む人にこそ、本書を読むことでペインを感じます。

なぜなら、それは読書の価値を否定するからではありません。むしろ逆です。読書の価値を信じている人ほど、その価値がもはや自明ではない現実を直視させられるからです。

経営者やマーケターにとっても、本書の示唆は切実です。ターゲットが「消費者」——つまりコスパで情報を求める層——であるなら、テキスト中心のコンテンツ戦略は根本から見直す必要があります。

逆に「読者」——知的体験を求める層——にリーチしたいなら、その層が持つ「選定の慎重さ」と「質への感度」に応えるコンテンツ設計が求められます。

そしてアルゴリズムがフィルターバブルの中に情報接触を閉じ込めていく時代だからこそ、本読みにとっては、書店で偶然の一冊と出会うセレンディピティの価値は、イノベーションの起点として逆説的に高まっています。

AIが答えを整え、無料の文章が無限に流れ、動画が理解を代行する時代に、本を読むとは何なのか。それは情報取得の手段ではなく、自分の思考のスタイルを守る行為なのかもしれません。あるいは、効率だけでは得られない知性を、自分の中に残しておくための、旧世代の抵抗なのかもしれません。

🖋 書評:徳本昌大 書評ブロガー・ビジネスプロデューサー

最強Appleフレームワーク


この記事を書いた人
徳本昌大

■複数の広告会社で、コミュニケーションデザインに従事後、企業支援のコンサルタントとして独立。
特にベンチャーのマーケティング戦略に強みがあり、多くの実績を残している。現在、IPO支援やM&Aのアドバイザー、ベンチャー企業の取締役や顧問として活動中。

■多様な講師をゲストに迎えるサードプレイス・ラボのアドバイザーとして、勉強会を実施。ビジネス書籍の書評をブログにて毎日更新。

■マイナビニュース、マックファンでベンチャー・スタートアップの記事を連載。

Ewilジャパン取締役COO
Quants株式会社社外取締役
Mamasan&Company 株式会社社外取締役
他ベンチャー・スタートアップの顧問先多数
iU 情報経営イノベーション専門職大学 特任教授 

■著書
「最強Appleフレームワーク」(時事通信)
「ソーシャルおじさんのiPhoneアプリ習慣術」(ラトルズ)
「図解 ソーシャルメディア早わかり」(中経出版)
「ソーシャルメディアを使っていきなり成功した人の4つの習慣」(扶桑社)
「ソーシャルメディアを武器にするための10ヵ条」(マイナビ)
など多数。
 
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