貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」
鈴木大介
幻冬舎
貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」 (鈴木大介)の要約
貧困は経済的な問題だけでなく、脳の認知機能低下による「働けない状態」が原因と著者の鈴木大介氏は指摘します。自身の高次脳機能障害の経験から、貧困者の脳の不自由さを理解し、孤立を防ぐ支援や共生社会の必要性を訴え、自己責任論では貧困問題は解決しないと述べています。
不自由な脳が貧困の原因?
貧困とは、「不自由な脳」(脳の認知機能や情報処理機能の低下)で生きる結果として、高確率で陥る二次症状、もしくは症候群とでも言えるようなものなのだ。(鈴木大介)
貧困とは、単なる経済的な問題ではなく、脳の認知機能や情報処理機能の低下がもたらす「不自由さ」によって引き起こされる、深刻な状況の連鎖だと著者の鈴木大介氏は指摘します。
経済的に困窮している人々が仕事をしない、またはできない理由は、怠慢や意欲の欠如ではなく、脳の機能低下によって「働けない」状態にあるためなのです。
著者はある日、突然病気により「高次脳機能障害」を発症します。それは、記憶や注意力、情報処理能力に大きな支障をきたす障害でした。
頭は働かず、やるべきことを把握しているのに身体が動かない。タスクをこなそうとするたびに何度も立ち止まり、記憶は断片化し、次に何をすればいいのか分からなくなる。些細な手続きや日常の作業すら、目の前に立ちはだかる巨大な壁のように感じられる。どんなに努力しても、思うように物事が進まない「生き地獄」を味わったのです。
それまで著者は、自分が努力すれば何とかなる、どんな困難も意志の力で乗り越えられると信じていました。しかし、この高次脳機能障害という現実に直面したとき、初めて理解しました。世の中には「頑張りたくても頑張れない」状態が確かに存在するのだと。努力しようとしても、その「努力する」という行為そのものが、脳の機能低下によって封じられているのです。
そこで思い至ったのは、これまで「怠け者」と見なされ、社会から切り捨てられてきた貧困に苦しむ人々の存在でした。彼らもまた、同じように「働けない脳」の不自由さに苦しみ、何度も自分を奮い立たせようとしたものの、現実がそれを許さなかったのではないか。頑張ろうと思うたびに、脳がブレーキをかける――そんな無慈悲な状況にあったのではないかと考えるようになったのです。
脳の機能が一時的または慢性的に低下すると、日常生活においてさまざまな困難が現れたと著者は言います。例えば、情報処理速度が遅くなり、些細なことでも立ち止まって考え込んでしまいます。物事を忘れる頻度が増え、タスクの途中で何をしていたのか分からなくなることもあります。
実際、複雑な手続きや条件が絡むと、その理解や判断が追いつかず、正しい選択ができなくなります。 行政の窓口で手続きをしようとしても、見慣れない用語や理解しづらい文章に出会うと、そこで立ち止まり、考えているうちに新たな「忘れる」が発生してしまいます。
そして、その結果、申請が滞り、必要な支援を受けることができません。このようにして、彼らは制度から取り残され、さらなる困窮に追い込まれていきます。
また、他者とのコミュニケーションにも支障が生じます。話についていけなくなり、言葉や文章の理解が難しくなるため、自分の状況や困難を適切に説明できなくなります。
その上、不安やストレスがこの「不自由さ」をさらに悪化させます。次第に、自分に迫る危機や問題に気づけなくなり、対応する力も失われていくのです。 貧困に苦しむ人々は、一般的な「助けを必要とする人」のイメージとは異なることが多いのも事実です。
約束を守らなかったり、時間にルーズだったり、計画性が欠如していることがあります。優先順位をつけられず、その場しのぎの選択をしてしまうこともあります。せっかく助けようと手を差し伸べても、その支援を拒んでしまうことさえあります。
時には、自分のために動いてくれる人に反発し、孤立を招いてしまうこともあります。 こうした姿は一見、自業自得や自己責任のように見えるかもしれません。
しかし、その背景には、脳の認知機能の低下という、本人の意志や努力ではどうしようもない問題が潜んでいます。貧困の本質は、「自力で抜け出せない苦しさ」にあるのです。
貧困から抜け出すためには、経済的な支援だけでなく、脳の機能低下による「不自由さ」を理解し、寄り添う支援が不可欠です。困難な状況にある人々が、適切なサポートを受けられる社会であれば、彼らの「不自由さ」も少しずつ解消されていくでしょう。支援が行き届くことで、彼らが再び社会とつながり、自立する道が開ける可能性が広がるのです。
今こそ自己責任論に終止符を!
もし支援するにしてもその子がそのどこに位置するのかを見極めた上でアプローチしなければ、てんで的外れになってしまう。不適切な生育環境で育った彼らがアウトローになるということは、一般的な社会とは異なったルールのある経済圏・文化圏に取り込まれるということであり、彼らにとってそれが比較的居心地の良い社会だということ。けれどその圏域でしか通じない独自のソーシャルスキルを獲得していることが、ずっと後々の「制度の無縁・斥力」につながっていくという視点だ。
貧困に苦しむ人々の背景には、先天的な障害特性、虐待による後天的障害特性、そして環境要因による学習機会の欠如が、複雑に絡み合っています。これらの要素は常に混在し、支援する側が彼らの状況を正確に見極めない限り、支援は的外れなものとなってしまいます。
不適切な生育環境で育った子どもたちは、いわゆるアウトローとして社会の別の経済圏や文化圏に取り込まれることが少なくありません。それは一般的な社会のルールとは異なる独自のルールが存在する場所であり、彼らにとっては比較的居心地が良いと感じる社会なのです。
しかし、その独自の文化圏で身につけたソーシャルスキルは、一般社会では通用しないことが多く、彼らが社会の枠組みから外れてしまう要因となります。時間の感覚、金銭の使い方、日常の遊び場、会話中の態度や表情、感情の表現方法、友人との距離感、さらには冠婚葬祭のマナーまで――彼らの育った文化圏での常識と一般社会の常識には、微妙な差異が数多くあります。
その差異が、彼らをさらに一般社会から遠ざけ、孤立させていくのです。 一度身についたソーシャルスキルや世界観を変えることは容易ではありません。失われた発達や学習を取り戻すことさえ困難なのに、それに加えて新たなソーシャルスキルを習得し直すことは、さらに困難を極めます。
特に、アウトローの属性を持つ貧困層の人々の多くは、もともと被害者や被害児童であり、不適切な環境から逃げ延びてきた子どもたちです。そんな彼らが大人になっても貧困に苦しみ、なおも社会から疎外され、制度の壁に跳ね返され、自助努力だけで生き抜こうとするのは、あまりに理不尽だと著者は指摘します。
その理不尽さの根底には、「不安の心理」が深く関わっています。脳の認知機能や情報処理機能に不自由を抱える当事者にとって、不安は症状を一層悪化させる最大の妨害要因です。何をするにも不安がつきまとい、その不安が判断力や記憶力をさらに低下させ、悪循環に陥ってしまいます。
自らの不自由さがどのように症状に結びついているのかを理解することが、最初の一歩となります。 不自由な脳に一人で立ち向かうことは、高いコストがかかり、非常に困難です。周囲の無理解がさらに苦しみを増すこともあります。
適度に依存することは、恥ずべきことではなく、自立するための重要な手段です。依存を恐れず、支えを受け入れることこそが、最も賢い生き方であり、自助努力の一つの形だということを知るべきです。
見えない努力を重ねる者の努力が報われない理不尽さこそ、貧困の本質です。支援を受けるべき人々が支援を受けられず、孤立し、苦しみ続ける現実は、社会全体で変えていかなければならない問題です。貧困は単なる経済的な問題ではなく、脳の不自由さや不安、社会の無理解が絡み合った複雑な問題なのです。
自己責任論に終止符を打つためには、社会全体が「不自由な脳」の存在を理解し、当事者が抱える困難に寄り添う姿勢が必要です。周囲の人々が、当事者の「できない」状況を非難するのではなく、なぜ「できない」のかを理解しようとするだけで、大きな変化が生まれます。
支援の手を差し伸べ、適度な依存を許容することで、当事者は少しずつ自分の能力を取り戻し、社会とのつながりを再構築することができます。 また、当事者自身も、無理に一人で立ち向かおうとするのではなく、他者に救いを求めるべきです。
誰かに頼ることは、決して恥ずべきことではありません。それは、自立への第一歩であり、自分を守るための賢明な選択なのです。孤立を脱し、適度な依存を受け入れることで、生活の質は確実に向上します。 「働けない脳」の存在を認め、当事者を自責と孤立から解放する社会は、より優しく、より持続可能な社会でもあります。
誰もが安心して助けを求め、支え合える環境を作ることで、貧困や孤立の連鎖を断ち切ることができるのです。今こそ、自己責任論という冷たい鎖を解き放ち、支援と理解を基盤とした新しい社会のあり方を築いていくべきだと著者は本書で訴えています。
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