学びとは何か-〈探究人〉になるために
今井むつみ
岩波書店
学びとは何か-〈探究人〉になるために (今井むつみ)の要約
真の知識は、情報を単に集めて暗記することではありません。それは、常に変化し、新たな関連性を生み出す活発なシステムです。この『生きた知識』は、私たちの考えや経験と共に成長し、深化していきます。目的を明確にし、新たなつながりを築く創造的な活動が、人を熟練者に変えてくれます。
探究人になるために必要なこと
「よい学び」を実現するためには、まず一人ひとりが自分は何を目的にして学びたいのかを考え、その目的のために最もよい方法は何かを考え、それを実践しつづける「学びの探究人」であってほしい。(今井むつみ)
今井むつみ氏の学びとは何か-〈探究人〉になるためには、認知科学の視点から学びの本質に迫る意欲的な一冊です。本書は、教育者や学生のみならず、生涯学習に関心を持つ全ての読者に向けた、学びの新たなパラダイムを提示しています。
著者は従来のただ暗記するという「知識のドネルケバブ・モデル」からの脱却を訴えます。学びとは単なる情報の蓄積ではなく、新たな知識を発見し創造するダイナミックなプロセスであると主張しています。この視点は、現代社会で求められる創造的思考力や問題解決能力の育成に直結する重要な指摘といえるでしょう。
本書の特筆すべき点は、認知科学の最新知見や脳科学を基に、人間の記憶や思考のメカニズム、知識の獲得プロセスを詳細に解説している点です。特に「スキーマ」の概念に焦点を当て、学習における既存知識の重要性を強調しています。
スキーマとは、私たちが経験を通じて形成する知識の枠組みのことです。新しい情報を理解し記憶する際、このスキーマが重要な役割を果たします。
何かを学習し、習熟していく過程で大事なことは、誤ったスキーマをつくらないことではなく、誤った知識を修正し、それとともにスキーマを修正していくことなのである。
言語学習では、母語のスキーマが外国語の理解を妨げることがあります。例えば、英語の「wear」と日本語の「着る」は一見似ていますが、使い方が異なります。「wear」は帽子やアクセサリーにも使えますが、日本語の「着る」は主に衣服に限られます。このような言葉の使い方の違いが、学習者に混乱をもたらすと著者は指摘します。
科学の分野でも、スキーマは重要な役割を果たします。天動説から地動説への転換は、同じデータでも既存の考え方によって解釈が大きく変わることを示しています。天動説支持者は地球中心モデルと合わないデータを誤差と考え、地動説支持者は同じデータを決定的な証拠と見なしました。
スキーマは私たちの思考を助けますが、同時に制限にもなり得ます。日常的な判断を速くする反面、新しい考えを受け入れにくくしたり、偏見の原因になったりすることがあります。科学者でさえ、何を観察すべきかを決める際には既存の考えに頼ることがあります。
しかし、自分の考えが絶対に正しいと思い込むと、新しい発見の妨げになる可能性があります。大切なのは、自分のスキーマを意識し、新しい情報や異なる視点を受け入れる態度を持ち、当たり前だと思っていることを時々疑ってみることです。 このように、スキーマは私たちの思考や学習に大きな影響を与えています。それを理解し、柔軟に対応することが、個人の成長や社会の発展につながるのです。
著者はまた、学びを熟達のプロセスとして捉えています。熟達とは特定分野の知識システムを構築していく過程であり、日常生活のあらゆる面で起こりうるものだと述べています。熟達の初期段階では素早く的確な判断や行動ができるようになりますが、より高度な段階では他者には真似できない独自のスタイルを創り出すことができると言います。この視点は、読者に学びの長期的な展望を示し、継続的な成長の可能性を示唆しています。
真の学び方とは何か?
模倣から始めてそれを自分で解釈し、自分で使うことによって自分の身体に落とし込むということは言語や運動に限らず、すべてのことの学習・熟達過程について必要なことなのである。
著者は、真の学びの姿勢として、常に自らの思い込みや仮説を意識的に検証し、新たな事実や情報に触れるたびにそれらを更新していく重要性を強調しています。この過程は、単なる知識の蓄積ではなく、自己の認識体系を絶えず再構築していく動的なプロセスとして捉えられています。 このアプローチは、学習者が自身の理解や信念を固定的なものとして扱うのではなく、常に柔軟に見直し、修正する姿勢を持つことを求めています。
新しい情報や経験は、既存の知識体系に単に追加されるのではなく、その体系全体を再評価し、再構成する機会として捉えられます。 さらに、著者は学習における主体性の重要性を強く主張しています。真の学びは、外部から与えられた情報を受動的に吸収するだけでは達成されません。
むしろ、学習者自身が能動的に問いを立て、探究し、自らの理解を構築していく過程こそが、深い学びにつながるとされています。 この主体的な学習姿勢は、単に与えられた課題をこなすだけでなく、自ら学ぶべきテーマを見出し、それに取り組む意欲と能力を育むことを意味します。これは、生涯にわたって学び続ける力、すなわち「学び方を学ぶ」能力の基礎となります。
エピステモロジー(認識論)とは、知識の本質、起源、範囲、そして方法を研究することです。これは、「我々はどのように知識を獲得するのか」「何を知ることができるのか」「知識とは何か」といった根本的な問いに取り組みます。
批判的思考とエピステモロジーは、密接に関連し、互いに支え合い、高め合う関係にあります。エピステモロジーは知識の獲得と正当化のプロセスを理解する枠組みを提供し、批判的思考はその枠組みを実践的に適用する手段となります。この2つが共に発展することで、より深い理解と洞察が生まれるのです。
知識を単なる事実の積み重ねと捉える「ドネルケバブ・モデル」という思い込みのエピステモロジーでは、真の批判的思考を習得することは困難です。このモデルでは、知識は断片的な情報の集積に過ぎず、それらの間の関連性や全体的な文脈が見失われがちです。そのため、思考力を養うには、より成熟したエピステモロジー、すなわち評価・構築主義的なアプローチが不可欠となります。
成熟したエピステモロジーにおいて、最も価値ある「生きた知識」は、断片的な情報の単なる蓄積ではありません。それは、常に変化し、進化する動的なシステムです。このシステムは、新たな要素が加わるたびに再構築され、まるで生命体のように成長し、変化し続けます。
人間の知識は、既存の理解と新たな知識を組み合わせることで、無限の新しいアイデアを生み出します。対照的に、ドネルケバブのように断片的に積み重ねられた知識は、実用的ではなく、新たな知識の創造にも寄与しません。
アンダース・エリクソンの研究は、このような知識の獲得と発展に関する洞察を実践的な側面から補完します。エリクソンによれば、アマチュアと熟達者を分けるのは、練習における集中度の違いです。高い達成度を示す熟達者は、練習中の集中力を重視し、メリハリをつけます。彼らは集中力が低下したら休息を取り、無意味な練習の継続を避けます。一流の熟達者は、綿密に計画された練習を極度の集中力で行い、その持続時間を最適化します。
真に必要な集中力とは、単に締め切りに間に合わせるための短期的なものではありません。それは、集中力の強弱をコントロールし、困難な課題に長期的に取り組む能力です。この力を養うには、知識の効率的な暗記という考えを捨て、自身が最も重要だと考えることに長期的に取り組む習慣を、幼少期から継続的に培うことが求められます。
超一流の達人に求められる資質は、忍耐力=あきらめない力です。自己成長の真髄は、価値ある挑戦に身を投じることにあります。個人の潜在能力を最大限に引き出すには、長期的な視野を持ち、困難な課題に粘り強く取り組む姿勢が不可欠です。
自己向上を目指す者にとって、まず重要なのは意義ある目標の設定です。自分にとって本当に重要な分野を見極め、そこでの成長を目指すことから始まります。 次に注力すべきは計画的な練習です。効果的な学習方法を採用し、日々の努力を積み重ねることが成功への近道となります。同時に、長期的なモチベーション維持のため、持続可能な習慣づくりも重要です。小さな成功を重ねる仕組みを作ることで、継続的な成長が可能になります。
また、柔軟な思考も欠かせません。障害に直面した際も、それを乗り越える新たな方法を模索し続ける姿勢が、真の創造性を育みます。そして何より、忍耐力の育成が鍵となります。即座の結果を求めず、継続的な努力の価値を理解することで、真の自己成長が実現するのです。
このようなアプローチを通じて、単なるスキル向上を超えた、本質的な自己成長と創造性の開花が期待できるでしょう。自分を高めるための意義ある課題に取り組むことは、人生の質を大きく向上させる可能性を秘めているのです。
葛飾北斎の例は、このような長期的な取り組みと成熟したエピステモロジーの実践を示しています。北斎は73歳以降も創作活動を続け、むしろその年齢からさらに作品の質を高めていきました。これは、長期的な集中力と創造性の維持が、年齢に関わらず可能であることを示す好例です。
批判的思考力とエピステモロジーの発達、そして長期的な集中力の維持は、互いに密接に関連しています。真の知識は、断片的な情報の集積ではなく、常に変化し、新たな連関を生み出す動的なシステムです。このような「生きた知識」を育むことで、私たちは生涯にわたる学習と成長を実現し、真の達人への道を歩むことができるのです。
探究心旺盛な人になるための2つの原則
「天才」と呼ばれる一流人に共通しているのは向上への意欲だけではない。自分の状態を的確に分析し、それに従って自分の問題点を見つけ、その克服のためによりよい練習方法を独自で考える能力と自己管理能力が非常にすぐれているのである。若くして卓越した熟達者になる、いわゆる「天才」と呼ばれる人たちは非常に早期からこの能力を身につけている。
探究心旺盛な人こそが、新たな地平を切り開く「天才」と呼ばれる存在です。誰もがそのような人材を育てたいと考えますが、どうすればよいのでしょうか。子どもが将来、選んだ分野のエキスパートになれるよう手助けする、シンプルでありながら極めて重要な2つの原則があります。
1つ目は、探究のエピステモロジー(認識論)を身につけることです。どの分野においても、一流の達人は常に向上のための方法を探り、実践する探究者です。探究者になるために最も必要なのは、この探究のエピステモロジーを持つことなのです。
2つ目は、親自身も探究者であることです。子どもが探究者になるためには、親も探究者のエピステモロジーを持ち、実践することが不可欠です。特に小さな子どもほど親の価値観に敏感です。親が探究者としての姿勢を示せば、子どもがそのエピステモロジーを身につける可能性は格段に高まります。
一流の熟達者になるための最も重要な条件は、集中した訓練を何年も毎日継続できることです。創造性は、この積み重ねの先に生まれます。必要な粘り強さとは、同じことを日々新しい視点で続けられる心、困難にぶつかってもあきらめずに乗り越えられる心です。真に創造的な人々は、向上への挑戦を決して止めません。創造性は天から降ってくるものではないのです。
熟達するにつれて、知識は大きなシステムとなり、安定し、自動的に体が動くようになります。これは正確な行動のために重要ですが、同時に慣れとなって創造性を妨げる可能性もあります。一流の熟達者が創造的であり続けるのは、「思い込み」にとらわれないよう、常に意識的にそれを打ち破ろうとしているからです。
長年の努力と研鑽の結果得られる広く深い知識、そこから生まれる直観、その分野で広く信じられている常識にも自身の直観にも縛られない柔軟な思考、直観を修正しデータに基づいて論理を積み重ねる批判的思考力、そして何年にもわたって地道に継続する粘り強さ。これらすべてを兼ね備えることが、科学を含むあらゆる分野で創造的であるために不可欠なのです。
著者の主張は、現代の教育理論や認知科学の知見とも呼応しています。学習者が自身の理解を能動的に構築し、常に批判的に検証していく重要性を裏付けています。 このような学習観は、単に学校教育だけでなく、生涯学習や職業能力開発の文脈でも極めて重要です。
究極の学習というのは「自分をきちんと客観的に知る」(メタ認知)と「相手の気持ち、考え方、感情を知る」(思いやり)であると思っています。(羽生善治)
羽生善治氏の言葉は本書全体を象徴しており、自己と他者への深い理解が、真の学習と個人の発展の核心であることを示しています。本書は、この概念を軸に、エピステモロジー、批判的思考、集中力、創造性、そして生涯学習の重要性を探求し、包括的な自己成長の道筋を提示しているのです。
急速に変化する現代社会において、固定的な知識や技能だけでは不十分であり、常に新しい状況に適応し、学び続ける能力が求められているからです。 著者の提唱する学習アプローチは、学習者に対して知的好奇心を持ち続け、常に自己の理解を更新し、深化させていく姿勢を求めています。
これは、単なる知識の獲得を超えて、創造的思考力や問題解決能力の育成につながる道筋を示しています。 結果として、このような学習観に基づいた教育や自己学習は、個人の知的成長だけでなく、社会全体の創造性や革新性の向上にも寄与する可能性を秘めています。
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