ピーター・ティールから学ぶ:ペイパルのIPOが教えてくれたこと。創始者たち(ジミー・ソニ)の書評

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創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説
ジミー・ソニ
ダイヤモンド社

本書の要約

ピーター・ティールは適切なタイミングでのIPOを行い、ペイパルはイーベイへの売却に成功します。ティールは売却後もベンチャーキャピタル会社や投資会社を設立し、多くの起業家を支援しています。また、ペイパルの創業メンバーはペイパルネットワークとして知られ、その後のIT業界に大きな影響を与えました。

ペイパルのIPO前夜、9.11までの動き

「2001年8月までに黒字化する」という、新しい全社目標をぶちあげた。黒字化は、ナスダックやニューヨーク証券取引所への上場条件ではなかった。IPO前に収益化を実現した企業は、2000年にはたった14パーセントに過ぎない。だが、テック株への投資意欲が減退しているなか、黒字化すれば弱気な投資家も重い腰を上げるだろうと、ティールは考えた。(ジミー・ソニ)

ピーター・ティールはIPOでもレバレッジをかけ、ペイパルの社員の力を引き出します。ITバブル崩壊という最悪のタイミングでIPOへの動きをスタートしたのです。上場時に黒字化をはかるために、今まで以上の残業や経費削減を求めました。そして8月の黒字化が達成したら、自分の髪を青く染めると宣言しました。

非公開会社が公的証券取引所に上場中請する理由はいくつかあります。
①財政的な理由
株式の一部を売却して、公開市場で機関投資家や一般投資家、その他の購入者から資金を調達できます。

②自社株を保有する創業者や古参社員にとって、会社の上場は紙切れの資産を本物の現金に換えるチャンスになります。また会社をゼロからつくりあげてきた過酷な日々から脱出する機会にもなります。

③一般株主がIPOで株式に支払う対価をもとに、事業の公正な市場価値を決定することができます。

④IPO関連の報道により、ブランドの認知を高め、会社名を覚えてもらう絶好の機会をつくれます。

ペイパルが上場する理由は様々なものがありますが、最も大きな理由は資金調達でした。2001年3月の資金調達ラウンドでは、ペイパルは海外投資家からさらに9000万ドルを調達し、事業は黒字化に近づいていました。 しかし、イーベイへの依存体質や高い不正率、クレジットカード会社との不安定な関係といったリスクに対しては警戒が必要でした。

そうした中で、IPO(株式公開)による追加資金は大きな保険となるのです。良好な市場環境であっても、IPOは煩雑で時間のかかるプロセスです。 IPOを通じて新たな資金を調達することで、ペイパルは事業の拡大やリスクの軽減に向けた取り組みを進めることができました。

さらに、IPOによって一般投資家に株式を公開することで、企業の知名度や信頼性を高める効果も期待されました。 また、上場することで企業の価値を客観的に評価してもらうことができます。投資家や市場からの評価によって、企業の成長性や競争力が明確になります。これにより、ペイパルはより多くの機会を生み出し、持続的な成長を実現するための基盤を築くことができるでしょう。

上場にはリスクや手続きの複雑さも伴いますが、そのメリットは大きいです。ペイパルにとっては、IPOによる資金調達と市場の評価を受けることで、事業の安定性と成長の加速を図る重要なステップとなりました。

2001年8月31日、ペイパルのユーザー数が1000万人を突破しました。 ペイパルの創業者であるピーター・ティールは、上場企業のCEOになることに迷いもありましたが、とにかくIPOを早く進めたかったのです。彼によれば、ペイパルの事業には依然として多くのリスクが存在しました。また、上場によってイーベイと対等な立場に立つこともできるという利点がありました。

ペイパルは単なる「うっとうしい添え物」ではなく、イーベイのルール変更によって排除される可能性があることを証明する必要があったのです。  さらに、モルガン・スタンレーのチームは2001年末までに迅速なIPOを行う選択肢はなくなったという判断を行います。しかし、これは同社の投資銀行家とアナリストの対立であるとティールは推測しています。実際にアナリストはペイパルのIPOを支持していたのです。

ティールはこれを受け、ペイパルのCEOである限り、モルガン・スタンレーとの取引を行わないと宣言しましたこの出来事以降、チームは新たな主幹事を見つけるために動き、IPO手続きに遅れが生じました。モルガン・スタンレーとのミーティングとの契約を解除し、チームが西海岸に戻ったのは、2001年9月10日月曜日の夜のことでした。すなわち、9.11のテロ事件の前日だったのです。

IPOそしてペイパルマフィアに

誰も上場しない時期こそが、逆説的に上場すべき時期なのかもしれない。なぜならそこにこそ、カオスのポジティブな対極があるからだ。(ピーター・ティール)

9.11のテロにより、ペイパルのIPOの準備作業は中断されました。テロ攻撃で多くの金融機関ががれきと化し、金融市場は何日も閉鎖されたあらです。 ちなみに公開証券取引所は9月11日から9月17日まで、1933年以来最も長く閉鎖されました。

再開当日、市場は7パーセント以上下落し、その後の5日間で1兆ドル以上の時価総額が消失しました。このような状況下での上場は困難であり、2001年9月には1つの企業も上場しなかったという異例の状況が生じました。実際、1970年代末以降では初めてのことでした。

9.11事件の前においても、ドットコムバブルの崩壊が進行しており、ペイパルのIPOは不透明な将来性にさらされていました。さらに、著名企業の不正会計事件も市場に暗い影を落としていました。2000年にはゼロックスが150億ドルの売上を架空計上していたことが発覚し、2001年10月にはエンロンが外国政府への贈賄や州のエネルギー市場の操作などの深刻な不正行為が明るみに出ました。

同年12月にはマーサ・スチュワートがインサイダー取引の容疑で巻き込まれ、数十億ドル規模の不正行為が毎週のように発覚していました。 このような不正行為や市場の混乱の中で、ペイパルは上場に向けて進んでいました。しかし、市場の不安定さや不正行為の露呈により、IPOプロセスが遅れることとなりました。この時期は金融界にとって非常に困難な時期であり、多くの企業が上場を見送るか、上場が遅れる状況でした。

ペイパルは困難な状況に立ち向かいながら、上場に向けて進んでいきました。モルガン・スタンレーとの取引を終了した後、ペイパルの経営陣はソロモン・スミス・バーニー(SSB)をIPOの主幹事に指名しました。SSBはIPOを2002年に延期するよう勧めましたが、ティールはそれでは遅すぎると主張しました。彼は上場に時間がかかればかかるほど会社にとって不利になると考えていたのです。

3か月後に世界がどうなっているかなんて、誰にわかる?だからいますぐ手続きを始めなくては。(ピーター・ティール)

社会哲学者ルネ・ジラールの思想に感銘を受け、常に他とは異なる考え方をする傾向がありました。この逆張り思考が、ティールをIPOの急ぎを促す要因となりました。

2001年9月28日、ペイパルがIPOの中請書S11を提出し、銘柄コード(ティッカー)PYPLで上場することが明らかになります。報道各社はこのニュースをネガティブに報じますが、ペイパルは思った以上に力をつけていました。

ニュースサイトが指摘するようにイーベイへの依存度は高かったのですが、数千社の中小事業者のサイトがペイパルを導入し、イーベイ以外のサイトがペイパルの取引に占める割合はいまや3分の1を占めるようになっていまし。この分野での成長はイーベイ関連のリスクを大いに軽減し、今後も収益構造のバランスを改善することが見込まれたのです。

ペイパルが証券取引委員会(SEC)にS11中請書を提出したのはテロ事件のわずか17日後、株式市場が3年ぶりの最安値を連日更新していた最中でした。しかし、IPOの直前になると、株価は9月の底値から30パーセント近く戻していました。ティールがテロ事件直後の中請を強行したおかげで、ペイパルは2002年初めに上場準備ができた数 ない1社となり、メディアと投資家の関心を異例なほど集めることができたのです。

IPOの直前には、金目当ての訴訟が増えますが、ペイパルも同じトラブルに遭遇します。 サートコなどからの訴訟とそれによるIPOの遅れは、メディアに広く取り上げられました。

IPO申請日からIPOが実際に行われるまでの間、ペイパルはSECに提出した書類を8回も修正して再提出しました。これはイーベイが上場前に行った修正回数の2倍にあたります。

同時にペイパルはイーベイとの売却話を進展させ、イーベイからのIPOへの妨害を阻止しようとします。 2002年1月、ホフマンとティールはペイパルの取締役会と協議して、売却提案価格を決めました。その価格はペイパルにとって健全な利益が得られるほどには高く、それでいてイーベイ経営陣が即座に却下するほど高すぎてはいけないという絶妙なものでした。

ペイパルの取締役会と経営陣は、10億ドルの価格を提案することで合意しました。IPOでは7億ドルから9億ドルの時価総額がつくはずで、10億ドルは、これに買収プレミアムを上乗せした金額でした。

一方、イーベイはIPOを待たないほうが安く買収できると考え、8億5000万ドルの最終オファーを出しました。当時のペイパルの交渉役だったリード・ホフマンは譲歩しませんでした。イーベイCEOのメグ・ホイットマンがこのとき10億ドルの買収オファーを提示していれば、取締役会はそれを受け入れた可能性が高かったと言います。

ペイパルは1月半ばから2月初めまでに、2件の訴訟と、3件目の訴訟の脅威、ルイジアナ州での営業停止、カリフォルニアとニューヨークの州当局からの免許に関する照会、ガートナー調査会社のレポートをめぐる混乱、そして投資家の不信感に立ち向かいました。

これらの強い逆風のせいで、IPOは2月6日から2月15日にずれこみますが、ペイパルは耐え忍びます。ティールはすばやくIPOを実現せよと、社員や引受銀行にハッパをかけました。そのために公募価格の引き下げまで行いました。

IPO前夜 2002年2月14日木曜日、AP通信がペイパルIPOの第一報を伝ました。公募価格は1株13ドル、明日ナスダックに上場というものです。

2002年2月15日の朝、ナスダック市場が開くと同時に、ペイパルの540万株が一般投資家に売りに出されました。前日夜に13ドルだった株価は、ものの数分で18ドルに急騰した。PYPLは22ドル44セントの高値をつけ、20ドル9セントで初日の取引を終えました。初値上昇率55パーセントは、2002年のこれまでのIPOの中で最高の出だしでた。

このIPOにより、多くの経営陣が資産家の生入りをしますが、最も多くの株式を保有していたイーロン・マスクは、1億ドルを超える個人資産を手にしました。マスクはわずか4年間で数千万ドルから数億ドルに資産を増やし、テスラやスペースXなどの未来の事業の基盤をつくりました。

ペイパルとイーベイはそれまでに4度も買収交渉を行いましたが、その度に決裂します。イーベイの提案金額は3億ドルから始まり、5億ドル、8億ドルと増え、いまや10億ドルを超えていました。

7月3日から7日にかけて、イーベイ経営陣はペイパルのデイヴィッド・サックス、ジョン・マロイ、ロエロフ・ボサとともに条件を詰めました。ペイパルがIPOを果たしたことで、今回の協議は円滑に進み、7日にはペイパルのイーベイへの売却が決定しました。

ピーター・ティールは適切なタイミングでのIPOに成功し、それによってペイパルはイーベイへの売却に成功します。この成功はティールやマスク、ホフマン、レヴチンらに大きな成果をもたらしました。

適切なタイミングでのIPOにより、ペイパルは利益を最大化し、次のビジネスへと進むことができました。ティールは売却後もベンチャーキャピタル会社や投資会社を設立し、多くの起業家を支援しています。また、ペイパルの創業メンバーはペイパルネットワーク(ペイパルマフィア)として知られ、その後のIT業界に大きな影響を与えました。(ペイパルマフィアの関連記事はこちらから


 

 

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