イノベーションが起きる組織 ヒト・モノ・ビジョンで断絶をつなぐ「媒介のデザイン」(神谷泰史)の書評

書籍:イノベーションが起きる組織 ヒト・モノ・ビジョンで断絶をつなぐ「媒介のデザイン」
著者:神谷泰史
出版社:翔泳社
イノベーションが起きる組織の書影

「この新規事業は確実に成功するのか?」 まだ顧客もいない、市場が存在するかどうかもわからない、カオスで不確実な、曖昧な初期段階(FFE=ファジー・フロント・エンド)の構想に対して、新規事業の会議でこのような問いが投げかけられる光景を、皆さんも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

経営者やマネージャーの方であれば、ご自身が口にした経験があるかもしれません。私自身、これまでベンチャー企業のIPO支援や、大企業の経営会議などで、この種の問いを何度も目の当たりにしてきました。

問うた側は極めて合理的であり、正しい経営判断をしているつもりです。しかし、その「既存事業と同じ評価基準を当てはめる正しさ」こそが、新しい芽を無自覚に摘み、組織のイノベーションを止めてしまう最大の要因なのです。

今回ご紹介する神谷泰史氏の著書『イノベーションが起きる組織』は、まさにこの「なぜ、優秀な人材が集まる私たちのチームで新しいアイデアが生まれないのか?」という切実な問いに対する、構造的な解答を提示してくれる一冊です。本書のサブタイトルには「ヒト・モノ・ビジョンで断絶をつなぐ『媒介のデザイン』」と掲げられています。

著者の神谷氏は、ヤマハで音楽の新しい楽しみ方の研究開発と新規事業創出の仕組みづくりに携わった後、外資系デザインファームやコニカミノルタを経て、現在はソニーグループのデザインストラテジストとして活躍されています。

本書は、決して安全な外側からの評論ではありません。日本を代表する複数の大手メーカーで新規事業を推進してきた著者が、大企業の内側で「通らない提案」と泥臭く格闘してきた生々しい経験を、学術的な研究の言葉で組み直した実践の書です。

現在、私たちは生成AIという強力なツールを手に入れました。AIを駆使すれば、大量のアイデア出しや市場データのスクリーニングは数秒で終わります。

しかし、だからこそ「アイデアそのものの価値」は相対的に下がり、生み出されたアイデアを組織内で翻訳し、他部署と協調し、実行へと移す「つなぐ力」の価値がかつてないほど高まっています。

AIがどれほど優秀でも、組織に根張る部署間の利害対立を解きほぐしたり、既存事業の論理に支配された経営陣を説得したりすることはできません。本書が提示する「媒介のデザイン」は、まさにAI時代において人間が担うべき真の役割を指し示しています。

本記事では、私のコンサルタントとしての経験も交えながら、本書を徹底解説していきます。自社の組織課題の解決やイノベーションを起こすためににどう立ち向かえばよいのか、その具体的な示唆を深掘りしていきます。思い込みに騙されず、組織を「構造」で捉え直すためのヒントが必ず見つかるはずです。

この記事でわかること

・組織内でイノベーションが阻害される根本原因である「4つの断絶」の正体
・部署間の連携を阻む「3つの壁」(言葉の壁、意味の壁、利害の壁)と克服法
・ヒト・モノ・ビジョンを用いた「媒介のデザイン」の具体的な実践方法
・「テクニカルオブジェクト」と「エピステミックオブジェクト」による、問いと対話のデザイン
・不確実な未来に備え、組織に真の「ビジョン」を着地させる5つのステップと手法
・顧客理解における「憑依」の技術と、インサイトを引き出す「観察道具」の活用法
・実装フェーズにおける「ファーストフォロワーとしてのヒト」「アンカー(錨)としてのモノ」「物語(ナラティブ)としてのビジョン」の機能
・媒介の性質を見極める「実軸」と「虚軸」の2つの座標軸と、合成角度をコントロールする設計法
・組織の「土壌(Context)」を分析し、最適な打ち手の順序を導く10項目の健康診断

30秒でわかる本書のポイント

【結論】
・イノベーションは要素同士がつながり創発して「起きる」状態を作るものである。
・組織内の分断された要素(ヒト・モノ・ビジョン)をなめらかに接続する「媒介(Medium)のデザイン」が、イノベーション創出の要である。
・成果(R)は、どのような組織の文脈・土壌(C)の中で、3つの媒介(M)をどう機能させるか(f)によって決定され、その関係は「足し算」ではなく「掛け算」で作用する。
【原因】
・組織には構造上、「既存知と新しい知」「FFE(初期段階)と管理」「探索と深化」「変革と納得感」という4つの断絶が不可避に発生する。
・異なる部門間では「翻訳」が決定的に不足しており、「言葉の壁」「意味の壁」「利害の壁」により対話が空中戦になってしまう。
・多くの企業が部分最適の罠に陥り、優秀な人材、最新ツール、立派なビジョンがバラバラに存在し、結合していない。
・曖昧な構想段階(FFE)に対し、既存事業で使われる「確実な売上の物差し」や「ROI」を悪気なく当てはめ、新しい芽を殺してしまう。
【対策】
・組織の「境界」を越えて翻訳・橋渡しをする「バウンダリー・スパナー(境界連結者)」を意図的に育成し、配置する。
・問いを投げかけ多義的な探究を促す「エピステミックオブジェクト(未完成な試作品など)」を会議の中心に置き、対話を引き出す。
・実装フェーズでは、他部門を「ファーストフォロワー」として巻き込み、実用最小限の製品(アンカー)と、経験を組織のDNAにする「物語」を機能させる。
・組織がどのような「土壌(Context)」にあるかを10項目で健康診断し、現状の課題に合わせて媒介(M)と文脈(C)の両方を整備する。

本書の要約

本書は、大手メーカーで新規事業創出の最前線を駆け抜けてきた神谷泰史氏が、組織内でイノベーションが停滞するメカニズムとその解決策を体系化した実践的ビジネス書です。

シュンペーターの「イノベーション=新結合」という定義に立ち返り、組織内にはすでに技術や顧客の声といった要素が存在しているにもかかわらず、部門間や評価基準の「断絶」がその結合を阻んでいると鋭く指摘します。

著者は、この断絶をつなぎ、組織内に価値を定着させる手立てとして、全プロセスにおける「媒介のデザイン」を提唱しています。異なる文脈を翻訳し、他部署と共創する「ヒト」、認識のズレを可視化し、現実とつなぎ止める「モノ」、そして全員が向かうべき方向を示し、組織のDNAへと昇華させる「ビジョン」。

これら3つの媒介を「R = f(M; C)」という方程式に則り、自社の文脈(カルチャーや制度)に合わせて掛け算で機能させることで、対立を協創へと転換できると説いています。

デザイン思考やアジャイルといった手法を導入しても組織が変わらないと悩む実務家に対して、経営現象を「構造」で捉え、実行可能なアクションへと落とし込むための確かな「足場」を提供してくれる一冊です。

こんな人におすすめ

・新規事業開発やオープンイノベーションの担当者・責任者 既存事業の論理が強すぎて、新しい提案が通らないと悩むミドルマネージャー
・部門横断でプロジェクトを推進するリーダーや、バウンダリー・スパナーを目指す人
・デザイン思考やアジャイルを導入したものの、現場が「To-Do化」して成果が出ないチーム
・顧客の「潜在ニーズ」や「インサイト」を深く掘り起こしたいリサーチャーやプランナー
・開発チームだけで完結せず、他部門や承認者を味方につけて実装を加速させたい人
・「自社の組織文化や評価制度がイノベーションの足を引っ張っている」と感じている経営層や人事担当者
・生成AI時代に、人間ならではの「観察力」「意味づけ力」「翻訳力」を高めたいビジネスパーソン

本書から得られるメリット

・なぜ自社の新規事業が頓挫するのか、その理由を「個人の能力」ではなく「組織の構造(断絶)」から客観的に理解できる。
・部門間の連携を阻む「言葉」「意味」「利害」の3つの壁の乗り越え方を体系的に学べる。
・問いを投げかけ探究を促す「エピステミックオブジェクト」を実務で設計し、チームの創造的な対話を引き出す手法がわかる。
・ビジョンを単なるスローガンに終わらせず、社会や暮らしの「未来」と「現在」をつなぐ実践的な未来探索手法を獲得できる。
・「弱い紐帯」や「ストラクチャル・ホール」といった理論を、実務での「新しい知の獲得」へ応用できるようになる。
・観察道具を活用して「厚い記述」を行い、データでは捉えきれないユーザーの「感情の機微」や「文脈」を切り取る技法が学べる。
・カオスな情報から本質的な課題を蒸留し、多様な解釈を「鋳型としてのモノ」で魅力的なアイデアへと結晶化するプロセスが身につく。
・実装フェーズにおいて、「ファーストフォロワー(ヒト)」「アンカーとしてのMVP(モノ)」「物語(ビジョン)」をどう機能させるかが理解できる。
・組織が持つ10の項目から「土壌(Context)」の健全性を診断し、最適な変革のシナリオを描けるようになる。

イノベーションが起きる組織の書影

イノベーションを殺す「4つの断絶」と部署間の「3つの壁」

技術と顧客のあいだ。管理と創造のあいだ。既存と新規のあいだ。経営と現場のあいだ。組織のあらゆるところに断絶が走り、イノベーションの脈を止めています。(神谷泰史)

イノベーションとは、無から有を生み出す魔法でもなければ、一人の天才による神がかり的な閃きでもありません。それは、すでにある要素同士を組み合わせる「新結合」です。これは経済学者ヨーゼフ・シュンペーター以来の古典的かつ本質的な定義です。

では、なぜ私たちの組織では新結合が起きないのでしょうか。優れた技術も、熱心に集めた顧客の声も、経営陣の意気込みも、社内には確かに存在しています。神谷泰史氏は、イノベーションが形にならない理由は「個人の能力不足」ではなく、組織の構造に深く埋め込まれた「断絶」にあると鋭く指摘しています。

家づくりに例えるなら、腕の立つ大工も、上質な木材も、緻密な設計図もあるのに、大工同士が顔を合わせず、木材の保管場所を誰も知らず、設計図が金庫にしまわれているような状態です。

本書では、この「断絶」を大きく4つに分類して解き明かしています。自社の現状をセルフチェックするための問いかけと共に、その詳細を見ていきましょう。

断絶① 知と知がすれ違う「既存知 × 新しい知」
自社への問い:同じ会議で、部門や専門が違うメンバー同士が、同じ言葉を使いながら全く違う意味で理解していることはありませんか? たとえば「デザイン」という言葉。エンジニアにとっては「仕様や構造」、デザイナーにとっては「造形や体験」、企画担当者にとっては「コンセプト」を意味することがあります。

著者は、他業界では当たり前の技術であっても、自分たちの組織の言葉に「翻訳」されていなければ、それは受け手にとって未知の「新しい知」であると述べます。つまり、イノベーションの不足とは、アイデアの不足ではなく「翻訳の不足」として読み替えることができるのです。

断絶② 不確実性を管理しすぎる「FFE(初期段階)× 管理」
自社への問い:あなたの組織では、新規事業に既存事業と同じ評価基準が適用されていませんか? FFE(Fuzzy Front End)とは、何を作り、誰に届けるのかすら定まっていない、霧の中を手探りで進むような曖昧な初期段階のことです。

FFEはイノベーションの源泉ですが、ここへ、まだ存在しない市場規模を問うたり、確実な事業の物差し(ROIや投資回収の見込みなど)を当ててしまったりすると、手探りで進むべきアイデアは形になる前に静かに息絶えます。

組織は悪意なく、効率化という「わけのわかる」正しい設計原理に従うことで、新しい芽を無自覚に排除しているのです。

断絶③ 既存への最適化が新しい芽を摘む「探索 × 深化」
自社への問い:新しいアイデアを提案すると、「その根拠は?」「前例はあるのか?」と問われ、議論が止まってしまうことはありませんか?

既存事業を改善・効率化・最適化する「深化」の力が強すぎる組織では、新しい可能性を実験的に探る「探索」の活動が異端として排除されがちです。これはチャールズ・オライリーらが提唱した「両利きの経営」や、クリステンセンが指摘した「イノベーションのジレンマ」に通じる、非常に根深い構造的対立です。

断絶④ 正しさが腹落ちに変わらない「変革 × 納得感」
自社への問い:「総論賛成・各論反対」で、結局誰も動かない経験はありませんか? トップが変革を叫び、ロジックとしては誰もが正しさを理解していても、現場の「腹落ち(センスメイキング)」がなければ組織は動きません。

メンバーが「これは自分たちの仕事だ」という共通の意味づけを持てていないため、いざ自分の部署からリソースを出す段になると「なぜ、忙しいのに新しいことをやる必要があるのか?」という無言の抵抗が生まれ、プロジェクトは頓挫してしまいます。

これらの「4つの断絶」を補強する形で、本書はさらに部署間の連携を阻む「3つの壁」について明らかにしています。メールを転送すれば情報が伝わる、と考えるのは大いなる間違いです。

・言葉の壁(統語的境界):共通の言葉が存在しない状態。
開発部の「歩留まり」、営業部の「チャーン」など、互いの専門用語が通じない状態。

・意味の壁(意味的境界):言葉は通じているものの、その解釈が食い違っている状態。
相手の文脈に合わせて意味を捉え直す「翻訳」が必要です。

・利害の壁(語用的境界):意味は理解できても、「それをやると自部署の評価が下がる」などの利害対立が残る状態。互いのプロセスを、痛みを伴いながら「変換」し、新たな関係性を再構築する必要があります。

著者はこれら4つの断絶と3つの壁を別々の問題として扱うのではなく、すべて「つなぐもの(媒介)の不在」という単一の構造的課題として捉えることで、イノベーションを起こす方法をわかりやすく解説します。

AIが普及し、情報そのものの獲得コストが下がった現代において、この「壁を越えて意味をつなぐ」プロセスこそが、人間に残された最も付加価値の高い仕事なのです。

イノベーションが起きる組織の書影

新結合をデザインする「媒介の方程式」——ヒト・モノ・ビジョン 

断絶をつなぐ方程式 R=f(M;C)

では、この強固な断絶をどう乗り越えればよいのでしょうか。 「もっとアイデアを出せ!」「今期中にイノベーションを起こせ!」と号令をかけたところで、結果そのものをコントロールすることはできません。

イノベーション(新結合)とは、複雑な相互作用の結果として創発する現象であり、私たちが直接コントロールできるのは、その結果を左右する「条件」や「変数」だけなのです。 著者は、分断された要素同士のあいだに立ち、両者をつなぎ合わせて新しい関係性を生み出す手立てを「媒介(メディア)」と呼びます。

そして、このイノベーションのマネジメントをシンプルに整理した、ひとつの美しい方程式を提案しています。

R = f(M; C)

この4つの記号は、それぞれ以下の意味を持っています。

・R(Result):成果。私たちが目指すイノベーションの成果ですが、これは間接的に得られる「出力」であり、直接操作することはできません。

・M(Medium):媒介。成果を生み出すために、私たちが直接動かせる具体的な「変数」です。本書では、断絶をつなぐ「ヒト・モノ・ビジョン」という「3つのM」として整理されています。

・C(Context):文脈。Mが置かれる「土壌(場)」にあたります。ルール、明文化されない組織文化、暗黙の規範、評価制度や予算配分など、3つのMを機能させるための前提条件です。

・f(Function):機能(レシピ)。3つのMを、このC(文脈)の中でどう機能させるかという「働かせ方」です。知識創造のエンジンを回すためのプロセスに該当します。

ここで、料理を思い浮かべてみてください。同じ「食材(M)」であっても、どんな「環境(C)」で、誰がどう手を入れ「調理(f)」するかによって、和食にも中華にもなり、全く異なる「一皿(R)」になります。イノベーションもこれと全く同じです。

「ヒト・モノ・ビジョン」という3つの変数を、自社の組織文化という土壌の中でどう組み合わせるかによって、得られる成果が大きく変わるのです。

多くの企業変革が失敗するのは、Mの導入(例えば最新のツールやフレームワークの導入)ばかりに注力し、それを受け止める土壌改良(C)を含めた媒介プロセス全体を見ていないからです。

役職や立場にかかわらず、断絶に橋を架けようとする私たちの仕事は、イノベーションを「起こす」ことではなく、適切なMを選び、組織のCの中でそれが動くように「媒介をデザインすること」そのものなのです。

イノベーションを起こすためには、組織の内部に新しい知識やアイデアが流入してくるネットワーク(M=ヒトのつながり)を、意図的に設計する必要があります。ここで、経営学で非常に重要な2つのキーワードが登場します。

キーワード①:「弱い紐帯(Weak Ties)」の強さ
私たちがチームの中で困ったとき、多くの人は気心の知れた同僚に声をかけます(強い紐帯)。信頼が厚く阿吽の呼吸で動けるため、実行段階では欠かせません。しかし、イノベーションの観点では「強い紐帯」ばかりだと、同じ価値観の「閉じられたコミュニケーション」になり、新しい情報が入ってこない「エコーチェンバー現象」に陥ります。

社会学者マーク・グラノヴェッターは、価値ある情報の多くが、実は「たまにしか会わない知り合い」や「異業種の勉強会で一度名刺交換をしただけの人」といった「弱い紐帯」からこそもたらされることを明らかにしました。弱い紐帯は、自分の普段のコミュニティでは絶対に手に入らない、異質な知や予想外のチャンスを運んでくる「別の世界へつながる通路」なのです。

キーワード②:穴を埋める人「ストラクチャル・ホール(構造的空隙)」
もう一つは、ロナルド・バートの研究による「ストラクチャル・ホール」です。これは、お互いの存在を知らない2つの集団の間にある「情報や認識の空白地帯」を指します。この「穴」を埋める位置に立ち、2つの世界を翻訳して結びつける存在(バウンダリー・スパナー=境界連結者)になれる人が、イノベーションの種をいち早く捉えることができます。

ある研究によると、社外との接触が多いだけの人(情報集めだけが得意な人)は、意外にも新しい情報の源とは見なされていませんでした。一方で、社内で「情報ネットワークの中心」にいて信頼され、かつ社外とも強くつながっている「媒介者」こそが、外部の新しい情報を持ち帰り、組織の中へなめらかに流し込む中心になっていました。

AIがどれほど進化し、瞬時に世界の論文を要約してくれたとしても、その情報を「自社の文脈」に翻訳し、既存の組織ロジックと結びつけ、関係者の利害を調整するのは人間の役割です。「あの人は顔が広い」と片づけるのではなく、自らストラクチャル・ホールを埋めるバウンダリー・スパナーとしてのネットワークを設計すること。それこそが、AI時代に人間が持つべきキャリア戦略なのです。

イノベーションが起きる組織の書影

対話と認識を操作する「モノ」の媒介——エピステミック・オブジェクトの力

エピステミックオブジェクト──欠けているからこそ人は動く。

私たちは「モノ(M)」と聞くと、機能や使い道があらかじめ固定された「道具」を思い浮かべがちです。しかし、イノベーションの現場で求められるモノは、それとは対極の性質を持ちます。

著者は、モノを2つの概念に分けて整理しています。
・テクニカルオブジェクト(技術的対象):機能や意味、使い方がすでに「固定」されているモノです。ある意味や解釈を一致・固定させるために使われます。

・エピステミックオブジェクト(認識的対象):機能や意味がまだ固定されておらず、人々から問いや探究、解釈を引き出すためにあえて「不完全・未完成」な状態にしているモノです。

エピステミックオブジェクトの真価は、その「不完全さ(余白)」によって、メンバーの暗黙知や多様な視点を引き出すトリガーになる点にあります。 初期段階で、あえて「まだお見せできるレベルではありません」という紙や段ボールで作ったラフな試作品をテーブルに置くことで、周りの人は「ここはこうすべきでは」「こういう使い方もできそう」と、批判ではなく共創者の立場でアイデアを投げかけやすくなります。

これが、対話を通じて解決を前に進める「課題のデザイン」の核心です。 完成度の高いスライドやプロトタイプをいきなり提示すると、受け手はフィードバックの余地を奪われ、「ROIは?」「前例は?」という管理のロジック(実軸)でしか反応できなくなります。

一方、粗いプロトタイプは「まだ何も決まっていない」という余白を伝え、多様な専門性を持つメンバーの視点(問い)を引き出す触媒として機能するのです。

また、「モノ」を活用した顧客理解のアプローチも秀逸です。ヘンリー・フォードが言ったように、顧客自身も自分が本当に何を欲しているかを知りません。アンケートで「何が欲しいか」を聞くのではなく、顧客の「世界に入り込む(憑依する)」ことが重要です。

ここで機能するのが、「観察道具(モノ)」を通じた「厚い記述(Thick Description)」です。スマートフォンやノートを単なる記録媒体として使うのではなく、ユーザーが置かれている状況の「ノイズ(文脈)」や感情の機微までを切り取るのです。

AIはテキストの裏にある論理構造を解析するのは得意ですが、工場長の油にまみれたメモ帳や、キッチンでのため息の重さといった「身体的なリアリティ」を感じ取ることはできません。この「憑依と俯瞰の往復」によるインサイトの獲得こそ、AI時代における人間の圧倒的な優位性です。

最後の媒介は「ビジョン」です。4つ目の断絶「変革×納得感」を埋め、メンバー全員が一丸となって未知の領域に進むためには、未来への意思決定を導くビジョンの媒介が不可欠です。

著者は、不確実な未来を探索し、現在と接続するための5つのアプローチ(シナリオプランニング、SFプロトタイピング、スペキュラティブデザイン、システミックデザイン、トランジションデザイン)を紹介しています。

これらを活用し、「envisioning process」の5つのステップ(着眼点の探求、シグナルの収集、ビジョンの描画、移行プロセスの設計、現在の課題への着地)をたどることで、ビジョンは単なる壁の標語ポスターから、日常の意思決定を導くコンパスへと変わります。

実装フェーズのダイナミズム インサイトを定義し、コンセプトが固まった後の「実装」フェーズでは、他部門(既存事業の代表者たち)との軋轢が必ず生まれます。

ここで彼らを「抵抗勢力」や「審査員」「承認者」として扱うのではなく、「ファーストフォロワー」として巻き込むことが重要です。

このフェーズにおける「モノ」は、アイデアをシビアな現実世界へつなぎ止めるための「アンカー(MVPなど)」として機能し、「ビジョン」は、プロジェクトの経験を組織のDNAへ刻み込む「物語(ナラティブ)」として機能します。内への意味の定着と、外への共感の連鎖を生み出すのは、この物語の力なのです。

組織の「土壌(Context)」を耕す いくら優れた媒介(M)を投入しても、それを受け止める「土壌(C)」が毒化していては芽は出ません。本書では、心理的安全性、雑談の許容、小さな実験の許容など、10項目からなる「土壌の健康診断」が提示されています。

もし自社の組織のスコアが低ければ、いきなり画期的なアイデアを求めるのではなく、まずは「他部署の人とランチに行く」「会議のテーブルに未完成のスケッチを置く」といった、ごく小さな「媒介のデザイン」から始めるべきです。制度はトップダウンの号令では耕せません。場のお世話(お節介)と、小さな成功の積み重ねが、土壌を育むのです。

コンサルタント 徳本昌大のView

私はこれまで、広告会社での新規事業プロデュース、あるいは社外取締役としてベンチャー企業のIPO支援やガバナンス強化など、多様な立場で企業の成長に伴走してきました。その中で常に意識しているのは、物事を単なる点としてではなく、文脈や構造を深く読み解く「Z軸(深さ)」の視点を持つことです。

投資判断を迫られる経営会議の場で、まだ見ぬ市場に対して「売上100億円」を求めてしまう合理性の罠。それを打破するためには、経営者自身が「既存の物差し(実軸)」を意図的に手放し、新しい知を育むための「虚軸」を許容する覚悟が求められます。

「会社が変わらない」「画期的なアイデアがない」。そう感じる場面は、これからも訪れるはずです。けれど、完璧な組織などこの世に存在しません。

イノベーションのきっかけは、部署や専門分野のあいだにある断絶に気づき、人や知識をつなぐことから生まれます。たとえば、ある部署では当たり前の工夫が、別の部署では長年の課題を解くヒントになることがあります。

専門用語や仕事の前提が違って伝わりにくいときは、相手の仕事に引き寄せて説明することで、その工夫をどう応用できるかが見えてきます。

多くの企業は、イノベーションの停滞を「人材の能力不足」や「新しいツールの欠如」という表面的な「点」の問題として捉えがちです。しかし、本書が明らかにしたように、真の課題はそれらの点の間に広がる「断絶」という「構造」にあります。

毎朝の経済ニュースに目を通すと、金利や為替、消費者の行動など、事業を取り巻く変化が見えてきます。その変化が自社にとって何を意味するのかは、現場で確かめる必要があります。

たとえば、節約志向の高まりを受けて、売上が伸びない理由を「価格が高いから」と考えたとします。ところが、購入を見送った顧客に聞くと、「導入後にどれだけ手間が減るか分からなかった」と言われるかもしれません。経済の動きから仮説を立て、顧客の声や現場で起きていることと照らし合わせる。この往復が、思い込みで原因を決めつけるのを防ぎます。

本書が提唱する「媒介のデザイン」は、立場の違う人が互いの事情を理解し、一緒に動けるようにする考え方です。部門間の連携を担う部署を設けても、承認の窓口が増えるだけなら、かえって話が通りにくくなります。そこで力を発揮するのが、部署や専門分野の境界をまたいで動く「バウンダリー・スパナー」です。

たとえば、営業が聞いた顧客の困りごとを開発が検討できる形に整理し、開発側の制約を営業が顧客に説明できる言葉で伝えます。こうした働きは個人の売上や開発件数に表れにくいため、どの判断や協力を前に進めたかまで見て評価することが大切です。

対話のきっかけには、あえて作りかけの資料や試作品を使います。本書でいう「エピステミック・オブジェクト」とは、まだ答えが出ていない問いを一緒に考えるための手がかりです。たとえば、顧客が申し込んでからサービスを使い始めるまでの流れを、分かる範囲で一枚に描きます。営業、開発、顧客サポートで見れば、「ここで顧客は何を待っているのか」「誰が案内するのか」といった問いが生まれます。

空欄があることで、それぞれが知っていることを持ち寄れます。 「顧客が迷わず使い始められるようにする」というビジョンも、今週の仕事に落とし込めます。まず、導入途中で止まった顧客に理由を聞き、営業とサポートで案内を見直します。次に、同じところでつまずく顧客が減ったかを確かめます。部署をまたいでこうした改善を重ねることで、ビジョンは日々の仕事の中で形になっていきます。

AIは、異なる分野の情報を整理したり、専門的な内容を相手に伝わる言葉に置き換えたりするのに役立ちます。そこで得たヒントをもとに、「この人たちが話せば、何か進むかもしれない」と考え、対話の場をつくる。そんな「ほんの少しのお節介」が、組織の中に新しい協力関係を生むきっかけになります。

本書は、人や知識のあいだに入り、協力が生まれる条件を整えることを「媒介のデザイン」として捉え、そのための考え方と言葉を示しています。身近なところで始めるなら、似た課題を抱える別の部署の人を引き合わせたり、あるチームの工夫を別のチームに紹介したりすることから始められます。

FAQ

Q1. 「媒介のデザイン」を明日から自チームで実践するには、何から始めればよいですか?

A1. まずは「モノ(バウンダリーメディア)」の導入が最もハードルが低く、効果的です。会議で言葉だけで議論するのをやめ、未完成のスケッチや簡単なモック、あるいは付箋とホワイトボード(エピステミックオブジェクト)をテーブルの中心に置いてください。それだけで、メンバーから「批判」ではなく「ここはこうできるのでは」という「問いと共創の対話」が引き出され、小さな翻訳が始まり、チームの雰囲気が変わり始めます。

Q2. 既存事業のROIの物差しが強すぎて、新しい提案がどうしても通りません。どうアプローチすべきでしょうか?

A2. 既存事業の物差しを直接否定するのではなく、「FFE(初期段階)のプロセス」であることを明文化し、評価軸(C:文脈)を切り分ける交渉から始めます。また、いきなり大きな予算を求めるのではなく、「1週間のデザインリサーチ(憑依)」や「低予算のラピッドプロトタイプ(検証)」といった、小さなサイクルで確かな兆し(インサイト)を見せていくことで、マネジメント側の「納得感(変革への安心)」を段階的に獲得していくのが現実的です。他部門を早期にファーストフォロワーとして巻き込み、規制や商流の課題を共有パートナーとして崩していくことも有効です。

Q3. 生成AIを新規事業開発に活用する場合、どのような役割を持たせるのが最適ですか?

A3. AIは「仮説の大量生成」や「市場・未来の兆しのスクリーニング」、そして「シンセティックユーザー(合成ユーザー)との疑似インタビュー」といった「補助線」として使うのが最も強力です。しかし、AIの出した仮説はあくまで出発点に過ぎません。そこから「憑依と俯瞰の往復」を行い、現場でしか得られない「N=1の厚い記述」を身体的に掴みに行くのは、人間にしかできない真の役割です。AIを徹底的に使い倒し、人間が本当に時間を使うべき「意味づけと翻訳(媒介)」に集中できる体制を作りましょう。

関連記事

【書評】 ビジョナリーカンパニー・ZERO(ジム・コリンズ)
起業家にとって、事業アイデア以上に大切なのは、変化に対応できる仲間を集めることです。今の戦略に合う人ばかりを採用すると、当初の構想がうまくいかず、方向転換が必要になったときに、チームが対応できないことがあります。採用では、仕事に必要なスキルに加え、未知の課題から学び、互いの強みを生かしながら、新しい挑戦に踏み出せるかを見極めましょう。事業の行き先が変わったとき、同じバスに乗る仲間の力が問われます。 →リンクはこちらから 

【書評】 イノベーションの経済学 「繁栄のパラドクス」に学ぶ巨大市場の創り方(クレイトン・M・クリステンセン)
『イノベーションの経済学』は、援助に加え、新しい市場をつくることが、貧困や経済停滞を乗り越える力になると説きます。クリステンセンが着目するのは、価格や利用の壁によって必要な商品やサービスを使えない「無消費者」です。人々が解決したい課題を見極め、手の届く価格と使いやすい仕組みで応えることが、企業の成長と社会の繁栄につながります。セルテルの携帯電話、Mペサの送金サービス、低価格の眼鏡は、可能性を示す事例です。
→リンクはこちらから

【書評】ゼロから創らない戦略 イノベーションを駆動する「価値移転」の法則(野本遼平)
イノベーションは、既存の技術や資産を「どこで、どう使うか」と問い直すことからも生まれます。かつて注目を集め、今では出番が減った技術や、社内で長らく眠っている資産も、別の業界に持ち込めば、そこで長く解決されてこなかった課題に応えられるかもしれません。市場や制度が変われば、同じ技術でも評価される強みは変わります。手持ちの資源と、それを必要とする顧客を結び直す「編集」が、新たな収益源を生み出すのです。
→リンクはこちらから

イノベーションが起きる組織の書影

最強Appleフレームワーク

 

Loading Facebook Comments ...

コメント

タイトルとURLをコピーしました