庭の話
宇野常寛
講談社
庭の話(宇野常寛)の要約
宇野常寛氏は、SNSによる相互評価に支配された現代社会を批判し、アーレントの「労働」「制作」「行為」の分類を基に、制作の快楽を取り戻す重要性を説いています。他者の承認を目的としない「制作」の行為は、自己満足と内面的な充実感をもたらし、現代社会の評価依存からの解放を可能にします。宇野氏は、この制作の喜びを日常に取り入れ、「庭」というメタファーを通じて多様性と自由を再構築する方法を提案しています。
プラットフォーム社会を超えて多様性と自由を取り戻すために
今日の人類社会はインターネット上で、Facebookの、Instagramの、X(Twitter)のプラットフォーム上で展開されているユーザー間の情報発信による相互評価の連鎖と、その結果としての世論形成が支配的な力をもっている。それはいわば、すべてのプレイヤーが参加する相互評価のゲームにほかならない。(宇野常寛)
現代社会において、私たちはSNSという強力なプラットフォームを通じて日々多くの情報を受け取り、同時に発信しています。しかし、この便利さの背後には、承認欲求や評価の渦に巻き込まれる危険性があります。スマートフォンを手に取れば、無数の「いいね」やコメントが私たちを取り囲み、その反応が知らず知らずのうちに行動や選択を支配しているのです。
評論家・PLANETS編集長の宇野常寛氏は、SNSが私たちの社会にもたらす影響について鋭く指摘します。プラットフォームは多様なテーマや本質的な問いを覆い隠し、表面的で些末な話題への反応を促します。
そして、この状況が引き起こす最大の問題は、人々が「ゲームの攻略」そのものを目的化し、本来の意図や価値を見失うことです。SNS上での「承認集め」はその典型的な例であり、それが個々人の生活や社会的つながりをどのように歪めているのかを見つめ直す必要があります。
現代社会において、私たちは「Anywhereな人びと」と「Somewhereな人びと」という2つの対照的な生き方の中に位置づけられると、イギリスのジャーナリスト、デイビッド・グッドハートは指摘しています。
「Anywhereな人びと」はグローバル資本主義の中で自由自在に動き回り、国籍や組織への帰属意識を最小限に感じながら、情報産業や金融市場を主な活動の場とする人々です。彼らにとって、自身が属する組織や国は、単なる「タグ」や補助的な存在に過ぎないのです。つまり彼らは、自らがどこにいようと同じように生きていける「どこでも」型の人々です。
一方で、「Somewhereな人びと」は、「Anywhereな人びと」とは異なる生き方をしています。彼らは20世紀型の労働者の延長線上に位置し、ホワイトカラー層を含め、組織や地域社会と深く結びつくことで社会に関与してきました。個人の能力や自由を最大化することに重きを置く「Anywhereな人びと」とは対照的に、「Somewhereな人びと」は特定のコミュニティや組織を基盤とした安定した生き方を選んでいます。
このような彼らにとって、市場や世界に対して直接的な影響を与える機会は少なく、選挙での一票やSNSを通じた発信、街頭での活動が、自分たちが世界に関与していることを実感できる貴重な手段となっています。つまり、「Somewhereな人びと」は、自分たちが属する場所や特定の状況に根ざして初めて生きていける人々なのです。
そのため、変化の波に取り残されたと感じた彼らは、トランプ大統領の台頭やブレグジットといった運動に共感を示し、それを支持する形で自らの存在感を表現しました。
この2つの生き方は、現代社会における情報技術やグローバル資本主義の進展によってさらに対照的に浮き彫りにされています。「Anywhereな人びと」は移動の自由や自己実現を追求する一方で、定住や共同体の絆を軽視しがちです。
しかし、その一方で「Somewhereな人びと」は、地域に根ざし、私的なつながりと公的な場の接点としての役割を果たしてきた「庭」の存在を切実に必要としているのです。
「庭」という概念は、人間の生存と創造の歴史において、非常に重要な役割を果たしてきました。狩猟採集から農耕牧畜へと変化する過程で、私たちは「庭」を生活の一部として取り入れ、そこで多様な事物との関係を築いてきました。
しかし、近代化とともに、多くの人が「庭」という存在を手放し、特に都市に暮らす現代人にとっては「庭」を持たない生活が当たり前になっています。さらに、グローバル資本主義に基づく情報や金融の世界に生息する「Anywhereな人びと」は、物理的な定住そのものを手放す選択をすることさえあるのです。 それでもなお、「庭」の再構築が求められる理由は明白です。
「Somewhereな人びと」にとって、庭は私的な空間と公的な空間を豊かに結びつける媒介であり、個々人が多様な生き方や価値観と出会う場です。
そして実は、「Anywhereな人びと」にとっても、ゲームの自己目的化に囚われた日々を乗り越えるためには、同様に「庭」のような存在が必要なのです。 「庭」を比喩として考えるとき、現代のプラットフォーム社会を内側から変革するためにはどのような環境が必要かが浮かび上がります。
その条件として、まず「庭」とは、人間が人間以外の事物とのコミュニケーションを取るための場であることが求められます。現代のSNSや情報プラットフォームは、人間同士の関係性だけを抽出し、それを肥大化させる装置に過ぎません。その結果、人間間の相互評価のゲームが支配的となり、それ以外の多様な関係性や価値観が排除されてしまうのです。
これに対し、「庭」では人間が自らの欲望だけでなく、自然や事物そのものと対話し、多様な関係性を育むことが可能です。
第2に、「庭」は人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、生態系を形成する場でなければなりません。庭には、人間の介入を必要としない独自の生態系が存在し、それが外部に向かって開かれていることが重要です。これによって、人間は閉じた相互評価のゲームから抜け出し、新たな視点や可能性を得ることができます。
第3に、「庭」は人間がその生態系に関与できる場でありながら、完全に支配することはできない場である必要があります。庭は、人間が環境に働きかけ、それに応じて変化をもたらす空間です。しかし、その変化は人間の意図通りに進むわけではなく、常に予測不可能な要素が介在します。
この不完全さこそが、「庭」の持つ可能性の源泉であり、現代の情報社会に新たな希望をもたらす鍵となるのです。 現代の情報技術が人間間の承認の交換を極限まで肥大化させた結果、多様性や自由は失われ、単一的で画一化された社会が形成されています。
しかし、「庭」という概念を取り戻し、それを私たちの日常生活や社会全体に再構築することで、この閉じた構造を開き、新たなつながりと創造の場を生み出すことができるでしょう。人間同士だけでなく、人間外の事物や自然とも関わる「庭」の存在は、私たちに多様性と自由のある未来への道筋を示しているのです。
インターネット時代の「庭」の役割とは?
「庭」は人間が事物を「制作する」ことで、つまり人間間のコミュニケーション(承認の交換)ではなく事物とのコミュニケーションで自己と世界との関係を確認できる。世界に対する「手触り」を実感できる場所でなくてはいけない。
宇野氏が提示する解決の鍵は、「庭」の再構築と「制作」の概念にあります。「庭」とは、人間が事物を「制作する」ことで、自己と世界との関係性を確認できる場所です。そこでは、人間間のコミュニケーション、すなわち承認や評価の交換に依存するのではなく、事物そのものとの対話が行われます。
他社との対話を通じて、私たちは自らの手で世界に働きかけ、その結果として得られる「手触り感」を実感することができるのです。庭は、単に眺めたり装飾したりするための空間ではなく、能動的に関与し、その過程で変化を引き起こしながら、同時にその変化の影響を受け取る場です。
この「手触り」の感覚は、現代社会で失われつつあるものです。情報技術が発展し、私たちの多くがスクリーン越しに世界を捉えるようになった今、世界との物理的な接触や実感はますます希薄化しています。庭は、この失われた感覚を取り戻し、私たちが「世界とつながっている」という確信を得るための貴重な空間となります。
庭での制作行為は、単なる結果を得るための労働ではありません。それは、没頭感や内的満足感を伴うプロセスそのものに価値があるものです。庭に触れ、手を動かし、事物に働きかける中で、私たちは自己を見つめ直し、社会の一員であることを実感するのです。
このような体験は、SNS上の相互評価のゲームや表面的なコミュニケーションでは得られない深い充足感をもたらします。
「庭」はまた、予測不能であるという点でも重要です。人間がどれほど手を加えようと、自然や事物の変化は私たちのコントロールを超えています。この不確実性が、私たちに謙虚さを教え、同時に想像力を刺激するのです。庭の中で、人間は単なる支配者ではなく、世界の一部として関わる存在であることを学びます。庭を通じて、私たちは世界が一方向の支配ではなく、双方向の関与によって成り立っていることを実感するのです。
具体的に「制作」の行為が持つ意義について、宇野氏はその内面的な喜びと没頭感を強調します。制作は、他者からの評価を必要とせず、自らの手で何かを生み出す行為そのものに価値があります。たとえば、料理をすることや、DIYで何かを作り出すこと、あるいは庭の手入れをすること。これらの活動は、SNSで承認を求める行動とは異なり、「誰かに見せるため」ではなく、「自分が楽しむため」に行うものです。
評価ゼロでも楽しむことができる制作の時間は、私たちに解放感を与え、プラットフォームの評価ゲームから離れるための第一歩となります。 また、宇野氏は共同体やコミュニティへの安易な回帰を批判的に捉えています。共同体には必然的にヒエラルキーが生じ、同じ物語を共有することが暗黙の前提とされます。これにより、共同体内のルールや価値観に適応できない人々が周縁化されるという問題が発生します。
そのため、宇野氏は「一人であっても社会に関与できる」形を提案しています。これは、孤立を意味するものではなく、むしろ他者との物理的なつながりを超えて、個人が主体的に社会や環境に働きかけることを指します。 さらに、「庭」が持つ重要な役割の一つは、人間以外の事物とのコミュニケーションを可能にする点です。
現代のSNSやプラットフォームが人間間の承認欲求を中心に機能しているのに対し、「庭」は人間外の事物同士が自律的にコミュニケーションを取り合う場を提供します。庭に存在する草木や動物、石や土といった事物たちは、それ自体が豊かな生態系を形成しています。
人間が庭に関与することで、その変化を目の当たりにし、自分自身もまたその一部であると感じることができるのです。この経験は、人間間の閉じた評価ゲームから私たちを解放し、より自由で多様な視点を取り戻す手助けとなります。
制作に没頭することが重要な理由
誤解しないでほしい。私は社会的な関係が必要ないと述べているのではない。むしろ逆だ。適切に他者とコミュニケーションを取るためにこそ、人間は孤独に世界とつながるための回路が必要なのではないか、と問うているのだ。人間はときに、孤独で「も」あるべきなのだ。共同体への回帰は強者たちによる傲慢な主張だ。
孤独とは、自己を見つめ直し、他者とのつながりを再構築するための重要な時間であり、現代社会の中で意識的に取り入れるべき要素です。人間は社会的存在でありながら、孤独で「も」あるべきなのです。そして、共同体への安易な回帰は、むしろ強者たちが自らの力を誇示するための主張に過ぎない場合が多いのです。
多様性や自由を真に尊重する社会を築くためには、共同体という枠組みを超えた新たなつながりの形を模索する必要があります。 この新たなつながりの象徴として、「庭」という概念が挙げられます。「庭」の再構築は、私たちが暮らす日常の中でも実現可能なものであり、特別な準備や大掛かりな仕組みを必要としません。
例えば、銭湯やコインランドリーを訪れることは、一見単純な行為のように思えるかもしれません。しかし、その空間には、公共性と孤独が見事に共存しています。銭湯では他の人々と同じ場を共有しますが、湯船に浸かるその瞬間、自分だけの内的な時間を味わうことができます。コインランドリーでは、洗濯を待つ間にただ一人の時間を楽しむことができ、その間に自分自身の思考を深めることができるのです。
これらの場所は、社会とつながりながらも個々の孤独を守ることができる「庭」としての機能を果たしています。 同じように、喫茶店や本屋も「庭」としての役割を持っています。これらの空間は、私的なオーナーによって運営される場所でありながら、その一部が公に開かれています。ここでは、他者と直接的に関わるわけではありませんが、誰かと同じ空間を共有する中で、緩やかなつながりを感じることができます。
また、好きな本を手に取り、静かに読む時間や、コーヒーの香りに包まれて一人考え事をする時間は、自分自身を見つめ直すための貴重なひとときとなるでしょう。
さらに、「庭」という概念が特に注目されるのは、その場がただの物理的な空間ではなく、私たちの思考や行動のあり方そのものに影響を与えることにあります。「庭」では、制作の楽しみが中心にあります。それは他者からの評価や承認を目的とせず、ただ自分が楽しむために何かを作り出す行為です。
「庭」という概念は、単なる比喩ではありません。それは、私たちが現代社会をより良い方向へ導くための具体的なビジョンであり、私たちの生き方を再考するきっかけを与えてくれるものです。庭の中で得られる制作の快楽、そして評価ゲームからの解放。それこそが、私たちに新たな希望を示し、未来を切り拓く鍵となるのです。孤独とつながりを同時に享受する「庭」を再構築することが、これからの時代を生き抜くための重要な指針となるでしょう。
宇野氏は、ハンナ・アーレントのメッセージを紹介しながら、現代社会における私たちの行動を再考する必要性を提起しています。アーレントは人間の活動を、生活の維持を目的とする「労働(Labor)」、物を生み出す創造的行為である「制作(Work)」、そして社会や政治において積極的に関与し他者とともに新たな価値を生み出す「行為(Action)」に分類しました。
これらの活動のうち、「労働(Labor)」は日々の生活を支えるための基本的な行為であり、現代社会においては多くの場合、効率性や結果が重視される反復的な作業とみなされています。
一方で、「制作(Work)」は、物理的な形を持つものを作り出し、それ自体が価値を持つ創造的な活動です。この制作には内面的な充足感や没頭感が伴い、それが人間にとっての「快楽」をもたらします。 宇野氏が提案するのは、生活の糧を得るための「労働(Labor)」の中に「制作(Work)」の要素を取り戻し、その快楽を再発見する回路を回復することです。
たとえば、料理を作る行為を思い浮かべてみるとわかりやすいかもしれません。ただ生きるための「食」を用意する作業として行われる場合、それは労働に分類されます。しかし、そこに創意工夫を凝らし、見た目や味に喜びを見出しながら料理を作る過程は「制作」の快楽を伴うものです。この快楽は、他者の評価を求めることなく、純粋に自己満足のために生じるものであり、その瞬間、人間は「制作(Work)」の持つ本質的な価値を体感します。
また、この制作の快楽を得るためには、他者との承認を目的としない没頭する時間が必要です。現代社会では、SNSを通じた相互評価のゲームによって、何かを行う動機が他者の「いいね」や反応に左右されがちです。しかし、「制作」に没頭するという行為は、そうした外部からの評価から離れ、内面的な満足を追求するものです。この没頭感が、私たちを現代社会の相互評価のゲームから解放し、自己の存在や価値を再確認させるのです。
さらに、宇野氏はこのアーレントの分類に基づき、「行為(Action)」の可能性をも見据えています。「行為(Action)」は、他者とともに新たな価値を創造することを意味しますが、その基盤となるのは、「制作(Work)」において自らの内面的な満足感を得る経験です。つまり、自分自身が何かを作り出し、その過程で得られる快楽を実感できるようになると、他者と共同で新たな価値を生み出す行為へと発展していくのです。
私たちが「労働(Labor)」の中に「制作(Work)」の快楽を取り戻し、それを日々の行動の動機とすることで、現代社会の相互評価に依存しない自立した存在へとアップデートされる可能性があります。
そして、これが「庭」の再構築という概念とも結びつきます。庭とは、人間が労働と制作、そして行為をつなぎ合わせ、内面的な充実感を得られる場です。その中で私たちは、他者との健全なコミュニケーションを実現するための自己を再発見することができるのです。
こうした提案は、現代社会の情報技術やグローバル資本主義による相互評価のゲームからの脱却だけでなく、新たな希望と価値観を生み出す一歩となるでしょう。労働、制作、行為をバランスよく取り入れ、社会的なつながりを超えた深い充足感を見つけること。それが、「庭」を再構築し、未来に向けて新たな生き方を模索する道筋となるのです。
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